2021年6月3日木曜日

母子関係 推敲 2

精神分析的アプローチと土居の甘え理論

 精神分析理論を振り返れば、その創始者フロイトは、母子関係にはかなり画一的な見方をしていたといえる。フロイトは乳幼児、ことに男児は早くから母親に対して性愛的な感情を抱き、それを父親によりそのような願望の禁止を余儀なくされるという理論である。ただしこの父親中心主義の見方については、のちに様々な異論が寄せられることになる。土居の理論もそのひとつであったが、彼が注目することを提案したのは、土居の論じたエディプス期に遡る前エディプス期の母子関係の問題であった。
 土居が1971年の「甘えの構造」で述べたことは精神分析の世界にかなりのインパクトを与えた。甘えは西洋社会にその正確な訳語が見当たらないと土居は言う。また土居は甘えと通常の依存とを区別している。通常の依存では人は自らのコントロールを失うことを暗に意味するが、甘えは状況を完全に支配下に置こうとする。甘えのルーツは子供が親に依存することである。そしてここで大事なのは、親の方も子供を甘やかしながら、身代わり的に自分も甘えを体験しているという事だ。そして土居はこの甘えを基本にした関係性がエディプス以前の関係性を築くのだとした。土居がさらに強調したのは、甘えは性愛性を排しているという事であった。彼はフェレンチが提出して、更にバリントにより論じられた「受け身的対象愛」の概念に言及している。この概念は他者から愛されたい願望として表現され、土居によればこれが甘えに一番近いという。この甘えには受け身性と非行動性が次のように関係している。甘えニーズは通常は言葉によっては表せられない。それを他の人が拾ってくれて、愛してくれることを期待するのである。日本社会ではお互いの甘えのニーズを感じ取り合う。自己中心的で他の人の甘えニーズを意に介さない人は日本社会からはじかれてしまう。しかし相互依存の社会は同時に、相互拘束をする社会でもある。甘えの申請が意味を持ち、役に立つのは、他者の甘えニーズを満たすことで社会で生き残れるような社会において意味を持つのである。
 フェレンチやバリントにより記述された前エディプス期の母子関係の問題は、ウィニコットにより精力的に論じられていた。ウィニコットは最初は赤ん坊は自分の欲求を母親が魔術的にすぐに満たしてくれるものと錯覚し、万能感に浸ると考えた。しかし赤ちゃんがその自我機能が成熟していく段階で自分の欲求がすぐには満たされないということを知り、脱錯覚を起こし、現実の在り方を知るようになると考えた。この錯覚が生じる段階においては、親がおっぱいを差し出すことが先か、赤ん坊がお乳を欲しいというサインを送る方が先かということは問われない。それはある意味では母子の間で自然と生じることがからであり、だからこそ子供はそれを「錯覚」するのである。
 実際の子育ての場面を想像した場合にこの点は容易に理解されよう。母親は赤ちゃんが機嫌が悪いのに気が付き、おっぱいを欲しがっているかもしれないと思う。そういえば前回の授乳から少し時間がたっている。赤ちゃんがおなかがすいてぐずっているのか、それ以外の理由で機嫌が悪いのかはわからない。上述の「敏感さ仮説 sensitiveness hypothesis」仮説によれば、このとき欧米人のお母さんの頭にこんな疑問が浮かぶことになるだろう。「もしおなかがすいていないのにおっぱいをあげたら、この子の『おっぱいちょうだい』という明確なメッセージを出す機会を奪うかもしれない」。他方日本人のお母さんは「おなかがすいているかもしれないから、とりあえずおっぱいをあげましょう」。でも、実際の子育てではこれらの判断がさらにあいまいなことはいくらでもあろう。前者なら「ぐずっていること自体が空腹を明確に訴えているということになるかもしれない」と母親が解釈して授乳につながるかもしれないし、後者であれば「でもさっきおっぱいをあげたばかりという気もするし、それに今別のことで忙しいし」となると結果的に授乳行動は遅れるであろう。そしていずれにせよ完璧に赤ちゃんのニーズを把握することのできるお母さんは少ないだろうから、現実的なフラストレーションはいずれの文化でも子供によって不可避的に体験される。それはどんなに細やかに子供のニーズにこたえる母親といても起きることなのだろう。
 このような意味で、Rothbaum が提起した問題、すなわち母親的な態度が子供が助けてほしいというサインを敏感に感じ取るか、それとも先に手を差し伸べてしまうか、ということをめぐる一つの議論は精神分析の世界においては歴史的なものともいえる。それはいわゆる「最適な欲求不満optimal frustration」 か、それとも「最適な現前Optimal presence」ないしは「最適な提供optimal provision」 か、という議論である。これについてもすでに議論がなされているのである。
 結局ここで何が言いたいかといえば「マーカスー北山説」の「日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感が重んじられる」というのは自己感の両面であり、どちらも必要なのだ、ということである。それが文化を超えて養育の場面で起きてくる過程をWinnicott の理論は示しているのだ。
 しかしその上でどうしてその想定的な重みづけにおいて文化差が見られるのであろうか? この問題について土居がどの様な見解を提示しているかを見てみよう。

土居の「甘え」の概念に関する提起

 土居は西洋人は他者のニーズを感じ取ることに鈍感であるという指摘を行っていることは注目に値する。「甘えの構造 Anatomy of Dependence」(1971)でアメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた感想について、彼は以下の記述を行っている。
 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients. patients. In other words,they were slow to detect the concealed amae of their patients.」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。
「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16) I was still rather surprised to find that even psychiatrists,who laid claim to being specialists on the psyche and the emotions-and those,moreover,who had received a psychoanalytical training should be so slow to detect the amae,the need for a passive love,that lay in the deepest parts of the patient's mind.」
 つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う。例えばP.21
 土居はこのような敏感さの違いが「文化的条件付け」によるものだとする。そして以下の説明を行う。
「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」 「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。
「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」
 つまり自分が「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことをする自由は他人によって与えられるものではない。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。「好きにさせて!」には重い責任が付きまとうのだ。そして土居はルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96)Scholar Juan Luis Vives (1492- 1540) :“Passive love,that is,the tendency to be the recipient of love,produces gratitude; and gratitude is always mixed with shame. Shame would naturally interfere with the sense of gratitude."(Anatomy of Dependence, p.86)「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)People in the West,however,as the Vives quotation suggests,seem to feel that thanks carry with them shame,which in turn hinders the feeling of gratitude. In the attempt to wipe out the sense of shame the Westerner,one might suspect,has striven for long years not to feel excessive gratitude, and thus passive love.(Anatomy of Dependence, p.86)」