2019年8月13日火曜日

神経ダーウィニズムと揺らぎ 5


さてここで重要な点は、大脳皮質の表面でダーウィン的な競争が行われるためには、そこでは臨界状況が生じていなくてはならないということである。逆に言えば、臨界にないときの人の心にはダーウィン則は必ずしも働かないということだ。では私たちの心が臨界になるのはいつで、いつではそうではないか、という難しい問題に私たちは直面する。
簡単に言えば、私たちの心はほとんどの時間は臨界状況にあるのだ。ボーっとしている、いわゆる「デフォルトモード」の時も、昔のことを回想している時にも、ある種のタスクを遂行している時も、ある意味では私たちの心は臨界状況にある。しかしある種の課題を必死になって遂行しているときの臨界と、ボンヤリとしたデフォルトモードでの臨界ではかなりその臨界の在り方が違うと考えられる。課題遂行モードにある心として典型的なものを想像して考えよう。常に脳を一定の状態で活動させなくてはならない作業、たとえば検品作業を考える。ベルトコンベヤーの上を次々と製品が流れてくる。ワインボトルにきちんとラベルが張られているかどうかの作業だとしよう。おそらくその種の作業はロボットにとっくの昔に取って代わられているかもしれないが、まあひと昔の話としよう。あなたはそこで朝から晩までボトルを一つ一つ調べ、ラベルの位置や角度を確かめるという事を繰り返す。ラベルを貼る作業をする人たちも一定のスキルを備えているので、99.9パーセントは問題が見つからないだろう。しかしボトルはコンベヤーに載って結構な速さで送られてくるので、作業を迅速に行わなくてはならないために結構緊張を要する。あなたは決まった手順での作業を次々とこなす必要があり、気を抜くことは出来ない。
その時皮質で起きていることは、視覚野での情報処理と同時に、その時調べているボトルが合格か不合格かの判断である。そして大抵は「合格」の判断を下す。これをカルヴィン流に考えてみよう。大脳皮質ではたいていのボトルに対して「合格!」のタイルの範囲がワーッと広がり、大勝利を収める。「不合格」のタイルたちは大抵はごく少数派にとどまり、勢力を拡大することが出来ない。ところがごくまれに、この少数派のタイルがあっという間に勢力を伸ばし、「合格」のタイルたちを圧倒してしまう。それはラベルが上下逆に貼られている、といった明らかなミスの場合だ。
この様に考えると皮質ではダーウィン的な競争が起きているとしても、一気に決着がつくような類のものだ。まああまり面白くもない勝負。絶対王者のボクサーが四回戦ボーイとやりあうようなもので、ゴングが鳴って数秒後には勝負が決まってしまう。水がマイナス4度のいわゆる氷冷状態に置かれ、水から氷の状態になるまでのあらゆる層が見られる臨界を形成する間もなく、たとえば液体窒素に注ぎ込まれて一瞬で凍ってしまうようなものだ。臨界状況は一瞬で終わってしまう。
ただしワインボトルの品質管理でも、とても頭を使うケースに出会うこともあるだろう。ラベルがほとんど気にならないほどに微妙に曲がっている状態。これを不合格として出したら、その日の担当の上司Aからは「さすが○○ちゃん」と褒められるかもしれないが、上司Bからは「○○ちゃんのこだわりでしょ!これを不合格にしたら他のはどうするの!」と怒られるかもしれない。今日はどっちの上司だろう。それにしてもどうしよう…。ここであなたは途方に暮れてしまうのだが、この途方に暮れる状態は頭の中でサイコロを転がしている状態であり、一瞬ではあれ、あなたの手は止まって目は天井のどこか一点に向かっている。つまりデフォルトモードにかなり近くなっているのだ。
こう考えると脳の活動は基本的には臨界が常に生じており、それがどの程度継続されるかに違いがあるということになるだろうか。そして臨界が生じるのは、一つの課題の遂行に時間がかかっている状態に典型的にみられるのであろう。例えばある人の名前を思い出そうとしている時。作曲をしている時。棋士が次の一手を考えている時。俳句をひねり出そうとしている時。あるいは夢を見ている時。その時脳はいくつかの要素の組み合わせを行い、そのうちどれがベストかを、ダーウィン的な競争のシステムにより割り出そうとしているのだ。そこで起きているのはある種のサイコロ振りであり、運を天に任せる、といった状態である。なぜなら私たちはそのような時はそうする以外にどうしようもないからだ。それは基本的に無意識過程だからである。
例えばある人の名前が出てこない。その時その人の顔を思い浮かべ、その人と交わした会話を思い浮かべ、後は心をデフォルトにすることで、その人の名前が降ってくるのを待つといった状態なのである。あるいはメロディーを考える時も、ある種のイメージを心に思い浮かべながら、課題遂行とは明らかに異なる心の状態にする。そしてそこで起きていることは、ダーウィン的な競争なのである。
デフォルトモードの際に脳で起きていることは、画像技術によりある程度分かっている。それはいわゆる正中線領域の興奮であり、内側前頭前野や後部帯状回、そして扁桃核、海馬の興奮である。これはいわば脳の全体に広がるネットワークと言え、いわば脳はその皮質の広範な領域を賦活させたうえで放っておくというわけだ。すると後は大脳皮質が自然とダーウィン的な競争を行ってくれるのだ。

2019年8月12日月曜日

神経ダーウィニズムと揺らぎ 4

例えば一角(イッカク)という奇妙なクジラをご存じだろう。一角が生まれたのは環境に適していたからだろうか? 一角が角のような、しかし実は切歯が進化したような棒をタラの群れに対して振り回してたまたま打たれて弱ったタラを捕食するという得意技を身に着けていたとしても、それが生存に役に立つのであれば、どうしてほかのクジラや魚たちも角を持たなかったのか? 結局一角の角(というか歯)は、ほんのたまたま突然変異である雄に生じ、それが優先遺伝として受け継がれていっただけではないか、というような議論と似ているのである。(なんだか、一角の角のコレクションをしたくなったなあ。でもカミさんは絶対反対するだろう。いるんだろうか? 一角の角コレクター?
  

思考にしろ発話にしろ、楽器の演奏にせよ、時間軸上に展開する(つまりダイナミックな)活動の展開の仕方は、間断なき大脳皮質のテリトリーの奪い合いだ、ということをカルヴィンに示唆された時、すごく合点がいったのを覚えている。そしてそのプロセスが概ね非意識的に行われ、そのプロセスを開始する指令を出したり、その結果を受け取ったりするときだけに意識が働く、というのはまさにその通りということになる。そして非意識的な活動からどうして文法にかなった文章が出てきたり、あるいは楽譜通りのメロディーが紡ぎ出されるかは、そのダーウィン的な精神活動の進行が、かなりパターン化されていることを意味するのだ。

2019年8月11日日曜日

神経ダーウィニズムと揺らぎ 3


神経ネットワークについて書き始めたこの文章を最初から読み直すと、われながら結構わかりにくい。このままだと「大脳皮質によって決定されることは、最も大きな報酬系の刺激を起こすものであり、だから決定論的である」という風に読めてしまうかもしれない。つまりそこに揺らぎとかいい加減さとかは存在しないことになってしまう。しかし実はそこには膨大な揺らぎが存在するということを言いたいのだ。
そこでカレーとハヤシの例に戻る。私たちはどちらかを選ぶように迫られている。何しろ訪れたのはどうしようもないほどにシンプルなレストランで、メニューには、「1.カレー、2.ハヤシ、以上。」としか書いておらず、あとはサンプルの写真が載っているだけだ。その時あなたはそれぞれを食べているイメージを頭の中で比べる。おそらく一つ一つを交互に思い浮かべることもできるが、その様なときには神経ネットワークにダーウィニズムはあまり働かない。「カレーの方は総合評価5、ハヤシは3.5くらい、ということはカレー!」などとやっているのだろう。その場合はダイナミックな陣取り合戦はおそらく起きないのだ。しかしその選択を一瞬で行なうべき時は、それらを同時に比べており、二つの候補のうち、例えばカレーがそのテリトリーを奪り去ってしまうのだ。それが無意識的に行われていればいるほど、そこでの決定はダーウィン的なのだ。それではそこでの勝敗を決めるのは何か、ということになり、先ほどの報酬系の話が出てきた。報酬系により訴える方の選択肢がグングン陣地を広げていくというわけだ。
 しかし報酬系はダーウィニズムが働く際の一つの駆動ファクターでしかない。おそらくそれ以外の、偶発的、恣意的、あるいは明確な理由のない因子がはたらいて選択が行われていく。それも瞬時のことなのだ。そうでないと人間の日常的な機能に追いつかない。何しろ決めるべきことは各瞬間に膨大に押し寄せるからだ。カレーのお皿が運ばれてきても、どちら側から食べようか、どのタイミングで水をのどに流し込もうか、どのペースで食べようか・・・・。これらのことを私たちはほとんど考えずに決めている。そしてそこに揺らぎの問題が介在している。(カレーを食べる、という作業をたとえばAIにやらせてみたら、そこに膨大な決断や筋肉の運動や間接の伸展屈曲などが介在していることがわかるだろう。)
ここにもう一つのわかりやすい例を挙げよう。言葉を話すという行為だ。私たちが用意された原稿を読むのではなく、言葉を選択しながらフリートークを行うとき、おそらく頭の中ではかなり高速で文章が構成されていく。発話される文章は、そのほんの0.5秒前には脳の中で構成される、といった感じだろう。ではいったいどのようにして文章がそのように高速で構成されるのか。それはおそらくほとんどが無意識レベルでの作業ということになる。するとそこで適当な単語が選ばれるプロセスは、無意識レベルで生じているダーウィニズムを他に考えられない。
 たとえば私は「ほんの0.5秒」と先ほど表現した。その時「ほんの」が出てくるのに一瞬時間がかかったことを覚えている。それは「わずか」でも「たった」でもよかったのであるが、選ばれたのは「ほんの」であった。その瞬間私の大脳皮質のある場所(ブローカ野?)では六角形のタイル達の間の争奪戦が起き、結果として「たった」が優勢となり決着がついたということになる。
さて私にはどうしてその時「ほんの」が出てきて「わずか」に勝ったのかわからない。今このように少し熟考してみたとしたら、私はおおそらく「わずか」の方を選んでいただろう。それはより文語的でこの学術的な文章(これでも?!!)にふさわしいからだ。でも先ほど瞬間的に選んだのは「ほんの」であったし、おそらくそちらが選ばれたのは、ちょうど砂の山のどこから崩れ出すか、というのと似たような偶発性が絡んでいたのだろう。たいした理由はない。たまたま、つまりは揺らぎなのだ。つまりそこに働いているのは厳密な意味での快感原則ではない。報酬系の絡んだ選択では、おそらく最終的に勝利をおさめたのは「わずか」なのである。ところが瞬間的には「たった」がその時は勝ってしまった。問題は果たしてこれもダーウィニズム的な動きと呼べるのか、ということである。進化論的に問えば、たまたま生じた突然変異により生まれた新しい形質が生き残るのは、はたして「環境に適していた」からだろうか? この問題はおそらくジェイ・グールド(著名な進化生物学者)に聞いてもわからない、と答えるだろう。しいて言えば、「どっちもあり」ということになるだろう。

2019年8月10日土曜日

揺らぎと死生学 3


フロイトはちゃんと諦めていないから未練が残るんだ、ということを言っている。でもフロイトには失礼だが、それは理想論過ぎる、というのが一般的な反応ではないだろうか。美しさは、失われてしまうことを十分に受け入れた場合にこそ本当の美しさがわかる、要するに美が失われるのを嘆くのは、諦め切れていないからだ、というのがフロイトの主張だが、そもそも諦め、とはいったいなんだろう。諦めとは期待を抱かないことだろうが、人間に将来に期待を抱くのをやめることなどできるだろうか? 期待を抱くとは、未来において自分が体験することを想像して喜びを感じることだろうが、それをなくすことなど本来できるだろうか?そしてこのことはまさに死生観についても言えることだ。フロイトがここで言っていることは、要するに人間にとっての生死の問題についてそのまま当てはまると私は考える。だからこそ「喪の作業への抵抗」などという言い方をしているのだ。ところが自らの死に対するフロイトの姿勢は葛藤に満ちていた。
ネットで拾った Ana Drobot  という人の文章を参照する。フロイトはこんなことを言っているらしい。死とは、「人生のすべての目的だ the aim of all life」と。人は常にこのことを考えていなくてはならない。人は人生を自然から借りているだけなのだ。フロイトは「人は死んだことがないから想像の仕様がない」と言う一方では、私たちが感じるよりもはるかに、私たちは死により支配されていると言う。しかしそれにもかかわらず、死は想像できない以上、死が怖いと私たちが言うときは、本当は死とは別のものを恐れているのだと言う。たとえばそれは、見捨てられ、そして・・・・でてくると思った。「去勢への恐怖。」
そうこうしているうちに、面白そうな論文に行き当たった。Blass という分析家の、On ‘The Fear of Death’ as the Primary Anxiety: How and Why Klein Differs from Freud. Int. J. Psycho-Anal., 95(4):613-627 2014年の論文だ。これによるとメラニークラインは、人間の不安はすべからく死への恐怖に還元することができると言ったらしい。フロイトとまったく逆だったのだ。ちょっと読んでみよう。
こんなことが最初に書いてある。クラインは、「不安は死への恐怖に由来する。」と言っている。フンフン。「つまり死の本能が不安の根源にあるのだ。」エー!! 死の本能と死への恐怖はまったく別物ではないか!!死への恐怖はよくわかる。でも死の本能って何?両方を混同することはあってはならない。なんだか読んでいるうちに、知りたいことがあまり出てこないことがわかった。そこで寄り道は中止。
とにかく私が何をいいたいかと言うと、喪の作業というのは連続的なものであり、「喪の作業、ハイ終わり。もう失った人のことで悲しむのはおしまい」という単純なものではない、ということだ。喪の作業は、これまた揺らぎである。やっとさよならが出来た、と思える瞬間の次にはどうしても諦めきれないという無念さが押し寄せてくる。この揺らぎを経て人は喪の作業を行っていくが、それは漸近線のように完了のほうに向かうものの、決して100%終えることは出来ない。人は決してあきらめ切れないのだ。
われらが I.Z. ホフマンは、だからこういっている。「コフートやエリクソンのような、死の恐怖は生への適応を十分遂げていない証拠だという主張は当たらないのだ。」つまり喪の作業、ないしは死への諦念を完了することが精神の成熟であるという考え方はおそらくあまりに理想主義的なのだ。それは私たちの生が有する本来的な揺らぎの本質を理解したものとは言えない、というわけである。

2019年8月9日金曜日

神経ダーウィニズムと揺らぎ 2


その時起きているとカルヴィンが主張するであろうことは、カレー派とハヤシ派に分かれていた六角形のテリトリー同士の勢力争いが起き、最後に勝った方が選ばれるというプロセスが大脳皮質で起きているという事なのだ。
さて最後にカレーが勝ったという想定で論じたが(しつこいようだが、別にハヤシでもいいのだが)、なぜそうなったのであろうか? 実はこの部分は心の在り方を考えるうえで一番謎めいた部分なのである。それをあえて言うならば、あなたにとっては、カレーを食べることを想像することがより快感につながるからである。心のダーウィニズムは、より本人に快を感じさせるものが勝利を修めるという法則に従うのだろう。では生命体は何を快に感じるのか。それはそれが本人の生存可能性を高めるから、という事になる。ここら辺はカルヴィンの本をこれから読み直すうちに見えてくることかもしれないが、私が一昨年に出版した著書「快の錬金術」(岩崎学術出版社)にも書いたものである。この部分は後に詳述することになるが、ここで概要を書いておこう。
そもそも線虫がダーウィンの原則に従って生き残っていくとしたら、それはどのような条件が整っているのか。その線虫は格別に力が強く、他の線虫との戦いに勝つかもしれない(線虫同士の格闘、もつれ合いなど想像もできないが、おそらくそんなことも実際にあるかもしれない)。しかし何よりも重要なのは、その個体が自分にとって有益なもの(餌匂い?)に向かって突き進み、また危険を真っ先に回避するからだろう。そしてそこで一番重要なのは、栄養豊富なものを摂取することへの快、そして危険への嫌悪が強いという原則が成立していることなのだ。快に向かい、不快を回避するという事を最も効率的に行った個体が生き残っていく。
しかしこれは考えると何となく理屈に合わない。線虫の個体は、どうして自分が快を感じるものが自分の生存の可能性を高めることを知っているのだろうか? おそらく論理が逆なのである。わかりやすくするために、線虫があるAという物質を摂取した時に、それだけ生存率が上がる、と仮定しよう。しかし線虫はAを美味しい(快感を味わう)とは体験していないかもしれない。しかしAという物質に対してより積極的に向かっていく個体が生き残るとしたら、その線虫は「主観的」にはAを美味しいと感じている方がはるかに合理的である。そこで自然は生物一般にある種のアラーム装置を与えた。それはドーパミンという物質により作動する装置で、それはその個体が生存する確率が高いものに対して快という感覚というアラーム(いい意味での)を鳴らすのだ。というよりは生存率を高めるような物質にアラームを鳴らすような個体がより多く生き残った、という事である。この様に考えれば快というのは全くの幻であっても構わない。快もまた、薔薇の赤い色、と同じようなクオリアであるとすれば、その実体はなくてもいいことになる。ただそれにしては生命体には報酬系というアラームシステムがなぜかしっかり備わっているのであり、そこに何らかの実態があるような気がしてしょうがないわけだが。しかしこれも証明のしようがない話だ。
結局私が言いたかったのは、ダーウィン的な適者生存とは、報酬系が機能するという事と、同じだという事である。ただしもちろん、ちゃんと機能する報酬系でなくてはならない。たとえば痛み刺激を快に変換してしまうような報酬系は早速生存競争に負けてしまうのである。しかし大まかに言ってその個体の生存にとって一般的に有効なものを快と感じ、その逆を不快と感じるような個体は、それだけ生存競争を勝ち抜くと考えていいだろう。

2019年8月8日木曜日

神経ダーウィニズムと揺らぎ 1


神経ダーウィニズムという名のゆらぎ理論
ウィリアム・カルヴィンという凄い学者がいる。この分野に関しては彼の「大脳のコードThe Cerebral Code:」(1996年、未邦訳)ほどすごい本はないと私は思っている。彼は大脳の表面で、ちょうど結晶ができかかっているような臨界状況が常に生じていると説くのだ。彼はある思考が生じる時、大脳皮質でテリトリーの奪い合いが生じているという。その素子とも言えるのが、大脳の六角形のタイルだ。そのタイルたちの大多数の支持を得ると、それが思考として意識化され、表現される。ここでタイルとは、神経細胞の集合体である。
The Cerebral Code: Thinking a Thought in the Mosaics of the Mind (Cambridge, MA: MIT Press, 1996 

たとえばあなたがレストランのメニューを見ながら、カレーにしようか、ハヤシにしようかと迷う。(ずいぶん単純なメニューのようだ。)大脳の特定の分野で、そこを構成する六角形のタイルのそれぞれが、たとえばカレーライス、とかハヤシライスとかの色に染まる。そしてその両者が領地の奪い合いを演じる。最初は迷っていたが、結局ハヤシだ!と決まった時は、六角形のタイルの大多数が最終的にハヤシを支持し、地滑り勝利を修めた時だ。丁度臨界点にあった水の表面が、一気に氷結してしまうような現象である。
しかし本当にそんなことってあるだろうか? カルビンは見て来たかのように書いている。でもこれは私が昔から疑問に思っていたことを言い当てているのである。私は昔から自分の心がサイコロを転がしていると感じていた。そう、揺らぎと同じ発想である。そしてある思考が生まれるまでの自分の心には、本当に取り留めのない思考の断片が浮かんでは消えている。それが思考として結晶化した時に、初めて自分はそれを意識化したり、言葉にしたりすることが出来るのだ。カルヴィンはそれを言い当てているようだ。
さてその六角形のタイルのことだ。私たち精神科医はその基礎知識として、大脳皮質はただ漠然と神経細胞が並んでいるだけではなく、直径0.5ミリほどの円柱状の細胞の塊が一つの単位として活動しているという事を学んだ。カルヴィンはそれを上から見て、六角形のパッチワークと見なしているのだ。
それらの単位が目まぐるしく勢力争いをしながら思考が形成されるとはどういう事なのか?
この説明のためにはもう少しカルヴィンの話に耳を傾け、彼の言うダーウィニズムについて理解しなくてはならない。
カルヴィンにとっては、ダーウィニズムは生命体が営むあらゆるシステムに埋め込まれていると理解される。彼が例に挙げるのは免疫システムである。ある抗原に暴露されると、動物は極めて迅速に抗体を作り上げる。これはとてもトップダウンでのんびりと起きるプロセスではない。抗体は様々な分子を組み合わせることで抗原に対応していく。決して新たに抗原と出会って、一から作り直されるわけではない。おそらく免疫システムでは、いくつかの分子の組み合わせが自動的に生じてその抗原に適した抗体だけが選択されて増殖していくという仕組みが出来ている。そしておそらくそれと同じようなことが脳のプロセスにおいての生じていると考えたわけだ。
さて抗原抗体反応なら、選択された抗体は、特定の抗原にフィットし、それを攻撃するという特性を持っていることで選ばれるわけだ。しかし思考についてはどうだろう? たとえば先程のカレーか、ハヤシかをめぐっての攻防だ。レストランで注文を聞かれて即座にどちらかを決めなくてはならなくて、心の中でサイコロを振るという様な事態ではないとしたら、あなたの心は結局カレーかハヤシかを選ぶにあたって、それぞれを実際に食べているのを想像するだろう。あるいはメニューに載っている写真を見て、どちらかが特に美味しそうに見えるかもしれない。その他のいろいろな条件が重なって、カレーの方が少しずつ良さげに見えてきて、ついにある時点で「カレーに決めた!」となるはずだ。(別にハヤシでも構わないが)。

2019年8月7日水曜日

揺らぎと死生学 2


以下の部分は、7月12,13日に掲載した「フロイトと揺らぎ」との重複部分がある。

この様に少なくとも理論においては揺らぎの少ないフロイトであったが、彼が1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイはむしろ例外的といえるだろう。このエッセイはフロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。特に揺らぎや死生観に関しては彼の考えを知る上で興味深い。
この「儚さについて」のエッセイでは、フロイトと美しい田舎町を一緒に散歩をしていてにある友人の詩人たち(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメ)が登場する。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「あーあ、この美しい景色もやがて消えていてしまうのよね。寂しいわ。」(ちなみに私が少し脚色してある。一応ザロメの発言という事にしよう。)それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」また彼はこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそなおのこと美しいのだ。」 フロイトの着眼点のするどいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。そして彼はそれを「Transience(儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。本書の読者には、これが臨界領域の問題と重なって見えることは当然だろう。
ところで、フロイトの言う「消えていくから価値がある」とか「希少だから美しい」というフロイトの主張は納得できるだろうか?  フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。そんなに割り切って考えることなどできるのだろうか、と思いたくなるのだ。私は全く分からないというのではないにしても、すんなり分かったとはとても言えない。むしろリルケやザロメの感覚の方がよくわかる。ただフロイトはここである種の二重視の問題を扱っているようだという事は分かる。
話を桜の花に喩えてみよう。「桜の花は散っていくからこそ美しい」。これは感覚的に頷ける人が多いかもしれない。その時、私たちは桜の花の向こう側の不在を同時に愛でているという事になる。「美しい」と共に「数日後には消えて行ってしまう」という感覚。いま思いついたが、台北の故宮博物院に、「白菜」が飾られている。といってももちろん本物ではなく、翠玉白菜(すいぎょくはくさい、虫がとまったハクサイの形に彫刻した高さ19センチメートルの美術品。← WIKI様)この展示の周りに人が群がり、「スゴーイ」となるわけだが、見る人によってはプラスチック製の安物の白菜に見えてしまうかもしれない。ところがこれがきわめて固い鉱物であるヒスイでできており、葉の部分にあたる緑色も実は原石の色をそのまま用いていることなどを同時に聞いていると、「ホホー!」感が増すことになる。あの硬い石をこれだけよく加工したものだという感動が加わるのだ。そしてそれは真の美しさとは別物という気がする。しかしそこには感動が伴うのだ。桜だってそうである。今見ておかないと消えてしまう、と思うとより注意を払ってみるだろう。あれだけ硬いものをよくぞこんなに削った、と思うとより注意深く眺める、というのと似ているのだ。これを私は二重視といういい方で表しているのである。