2026年3月6日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 5

 このテーマに書いているうちにいよいよ迷宮入りし、どうしてもエッセイ風にならざるを得ない。要するに考えがまとまっていないからだ。テーマから脱線する形になるが、しばらく書き進めるしかない。

 境界についての私の考えが変わったのは、おそらく境界を守るとはどういうことかについて徹底して考える機会を持ったからだと思う。きっかけは私の研修医時代にさかのぼる。
 新人の頃、私は精神分析にとても興味をひかれたが、同時に精神分析に全く無知であった。つまり何となく精神分析という言葉や雰囲気に魅かれたのである。そして精神科医の新人を集めた精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 そこではある患者さんが5分ほど開始時間に遅れた事について話していたが、S先生は次のようなことを言った。「この患者さんが治療時間に5分遅刻してきたのには無意識的な理由があるだろう。つまり治療に対する抵抗なのだ。だからこの遅刻は分析の対象になるのだ。」それを聞いたときは私には目からうろこだった。心に興味を抱いていたとはいえ、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の動きにことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくは常にそれを念頭に置いて考えるようになった。こうして一週間ほどずっとそれを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。

 例えば患者が5分遅れてくるという類のことは日常的に起きる。逆に5分早く訪れることもあるし、いつも定刻ぴったりに表れる患者もいる。そして私自身が何かの約束に5分遅れることもあるのだ。それが起きるたびにその無意識的な理由について問う事は極めて難しいのではないか。
 患者は5分遅れた時には、私と会うことに無意識レベルで気が進まなかったのかもしれない。しかしほかにも原因は山ほどあるだろう。5分の遅れは電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。つまり境界侵犯(少し大げさだがこう呼ぼう)は偶発的にいくらでも起こりうる。患者はそれ以外にも時間を延長したがるかもしれないし、支払いをしぶるかもしれない。つまり「通常なら~はずである」という想定から外れるような出来事は一回の面接に山ほど起きるのだ。境界侵犯はあらゆるところに満ち溢れている。そのうちどれを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか。
 そう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。何ともはや単純で理系的な発想だ。しかし私はその頃はまだ精神分析は学問だと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では5分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」それに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ.Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時のS先輩の返事は忘れられない。彼はあきれたように、無知の初学者である私を窘めるように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」(「そんなの当り前じゃない?どうしてそんなことを考えるの?」という口調であった。)

 それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー、そうか‥‥」。  私が医学部を卒業後5年経ってアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「自分の無意識を知れば、患者の無意識もわかるようになり、患者の無意識の抵抗もわかるようになるんだ。「これこそ心の探求の真の学問だ。」しかし一抹の疑問は抱えていたのである。



以下、延々と続くので省略