2026年3月17日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 15

  上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹していては生じない。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、強固なものになって行くのだ。それはなぜなのだろうか?それは境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくからだ。  治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。と言っても患者の方が一方的に押してくる状況だ。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者はちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚は跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、その患者の行動に不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、こちらの押す力に応じて踏ん張るので倒れることがなく、安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもっと困惑の色を浮かべ「押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。そう、治療者はそれなりにしっかり反応をしてくるのだ。ただその反応は依然として穏やかで、患者からの揺さぶりに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、ただ心穏やかな人間としてそこにいることを感じさせる。そこに患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者である。  このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう?つまりそれは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はピシャッと跳ね返されたり、無視されたりするだろう。「私のキャンセルの理由をお聞きになりたいのですね?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、「はい時間です!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。  今示した剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに真っ当な人生経験を積んできているからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。 そのようなことが生じる可能性を考えてみる。一つは、治療者自身が左脳人間的であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる。 いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。