2026年2月24日火曜日

バウンダリーについて 15

  話を元に戻す。リンド論文では、一般集団におけるCSA(子供の性的虐待)に関する基本的な通念は支持されなかったと結論づけているという話。一般に論じられているCSAのトラウマ性や有害性と大きく矛盾する結果となったのだ。これをどう考えたらいいのか。  実は私は似たような体験を持っている。精神医学的なある「常識」が一般人を対象にした研究と大きく矛盾するということを知ったのだ。「脳から見えるトラウマ」(2025年)での「トラウマと記憶」(p.46~7)という章で、私は次のようなことを書いた。  「2001年にPorter & Birt は  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?) という論文で、通常の記憶とトラウマ記憶にどのような差がみられるかについて研究を行った(Porter & Birt, 2001)。彼らは306人の被験者に対して、これまでの人生で一番トラウマ的であった経験と、一番嬉しかった経験を語ってもらったという。すると両者の体験の記憶は多くの共通点を持っていた。つまり双方について被験者は生々しく表現できたという。またよりトラウマの程度が強い出来事ほど詳細に語ることが出来た。それをもとに彼らはそれまで一部により唱えられていた説、すなわち「トラウマ記憶は障害されやすい」という説はこの実験からは否定される、とした。さらにトラウマ記憶についてはそれが長期間忘れられていた後に蘇ったのはわずか5%弱であり、嬉しかった記憶についても2.6%の人はそれが忘れられていた後に蘇ったという。この研究ではまた長期間忘れていた後に想起されたトラウマに関して聞き取りをしたところ、それらの記憶の大部分は無意識に抑圧されているわけではなかったという。それらはむしろ一生懸命意識から押しのけようという意図的な努力、すなわち抑制 suppressionという機序を用いたものであったというのだ。この学術的な研究からは、トラウマ記憶が抑圧され、後に治療により回復される、という理論は概ね誤りであるという結論が導かれることになる。しかし実は一時的に失われていた記憶が治療により、あるいはそれとは無関係に蘇るという現象は、精神科の臨床では稀ならず見られる。それはトラウマを扱う多くの臨床家にとってはむしろ常識的な了解事項とさえいえる。これはいったいどういうことであろうか?」 わかり易く言えば、この一般人を対象とした研究では「忘れていたトラウマ記憶を思い出すというのは神話だ」と主張しているのに対して、でも臨床場面ではそれはよくある事なのに、なぜそのような研究結果になるのだろう、と私は考えたのだ。  実はリンド論文に関する私の立場も同じなのだ。CSAの有害性が臨床的にはこれほど明らかなのに、なぜ研究には表れないのか。その点が重要なのだ。