「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由なことを書いても比較的許されるからだ。ということで私はこのディスカッションに突然引き込まれたが、おかげでずいぶん刺激を戴いた。work discussion
をWDと書くことにする。まずはWDについての私の乏しいながらの理解から。
WDは、1980年代種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。
さて私はたまたまワークショップで長谷先生や若狭先生の実践の発表を知って,「ああこれが今話題になっているWDなんだ…」,と問題意識をかろうじて共有させてもらうところから始まつた。実は自分でもとてもよく知っている、あのプロセスのことなのだ。ある事例が発表されて様々なデイスカッシェンが行なわれ、時にはドラマか展開するプロセス。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会でのケース検討会でも何度となく経験し、時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になり、聴衆のひとりとしとも歯がゆい思をしたこともある。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不幸理と感じる一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方について考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。