暫く自我状態療法についてみて来たが、結局統合についての立場はどうなのだろうか? 本家本元の Watkins 夫妻にとっては、おそらく統合は眼中になかったのであろう。このシリーズの11回目で述べたように、彼らは自我状態療法において一人の人間の心に家族療法やグループ療法を応用しようと考えたのだ。彼らは家族の構成員たちに一つの心にまとまれ、とはまさか言わないだろう。あるべき姿はあくまでも平和共存である。「講座精神疾患の臨床4(中山書店、2020)」で福井義一先生が「自我状態療法」(p.165~)で書いていらっしゃるが、「[自我状態療法は]あくまでも自我状態理論に基づいて事例を概念化するので、必ずしも自我状態との(ママ)統合という方向だけを目指すわけではない」とある。(文中の「ママ」とは、「自我状態の統合」の表記間違いかも知れないと私が思うからだ。) ちなみに同書では野間俊一先生にお願いした「解離症の治療論」(p.155~)が治療論としてはもっとも本格的で包括的なものだが、そこで先生はかの Colin Ross 大先生が最近になり、小さな著作(Ross CA.Treatment of Dissociative ldentity Disorder :Techniques and Strategies for Stabilization. Manitou Communications, 2018.)を発表していると書いてある。そしてそこにも依然として治療目標としては「完全な統合を目指す」と書かれているが、それはそのような志向性を持つことで、どのパーツも排除しないことを強調しているのだという。
ちなみにこのRoss の著作、早速キンドルで注文してみた。
ということで少し次のテーマに移りたい。それは
「統合の代わりに見られる共意識状態 co-consciousness」
という問題である。こちらの方が臨床的に圧倒的に見られるのだ。二人の意識状態(人格)が存在し、目の前で「掛け合い」をする。 これこそ「どうせなら統合しないのだろうか?」という疑問を抱かせる現象である。
既にどこかに書いたかもしれないが、その状態にある方に、別々の7桁の数字を覚えてもらったことがあった。しかしその方は出来なかった。「混乱してしまう」というので、それ以上はもちろんお願いしなかった。しかしこれには随分考えさせられた。二つの心が本当に別々に共存しているのであればこの作業をできるであろうが、どうも二人の違う人間が目の前にいる、という状態とも違うようだとわかった。
この共意識の話で思い出すのはやはり分離脳状態の話だ。左右脳を分離した状態ではある種の掛け合い、ないしは言い合いが成立する。多分マイケル・ガザ―ニカの記述だったと思うが、分離脳の患者さんに左右で別々の絵、例えば四角と星などを同時に描いてもらったが、特に問題なく描けていた。それぞれに7桁を覚えてもらう、というのはその様な作業だ。しかしDIDの方にこれが苦手であるとすれば、分離脳ともまた異なる現象が生じているのであろうか。
しかし考えてみれば、私たちの左右脳は、脳梁で結ばれているから一つと感じるだけで、この場合は「心は一つ」がむしろ錯覚と言えないであろうか。
ともあれDIDの方の体験で時々聞くのは、体の一部が自分のものではないという感じである。自分の手を触っても、誰かの手を触っている感じがして気持ち悪い、ということを聞く。通常自分で自分の手を触る時は、その触覚が自分が触っているという意識により変更される。だから自分で自分をくすぐることが出来ないのだ。ところがこれが起きなくなるのが共意識状態である。