2021年10月2日土曜日

解離における他者性 1

これからおよそ100回くらいの連載になる。これまでさまざまなところに書いたものをまとめる作業である。 

「他者」としての交代人格と出会う事

  解離性障害、特に解離性同一性障害の臨床には様々な問題が山積している。その概念上の混乱、精神分析の中での不安定な位置づけなどはその解決の糸口を見つけるのは容易ではないという印象を受ける。しかし最大の問題は、臨床場面において解離性同一性障害がどの様に扱われているかという事である。最近では以前ほどではなくなったかもしれないが、それでも解離性同一性障害という状態そのものを認めようとしないという態度は、いまだに精神科医やそのほかの臨床家にもみられるとしたらこれは深刻な問題である。
 そのことは最近杉山登志郎先生の書かれた一文を目にして私の中にかなり実感を伴って感じられるようになった。杉山先生(愛知小児センター「子育て支援外来」)は日本の精神医学会で、とりわけトラウマ関連で非常に強い発信力を持っておられる方だが、先生の著書に次のような個所を発見した。

一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない。
(杉山登志郎 (2020) 発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療 p.105)

これは私がもしかしたら起きているかもしれないと危惧していたことが文章になったものとして私がはじめてであったものである。これはいったいどういう事であろうか?

現在は精神医学という分野があり、その専門家(精神科医)がいる。そして彼らは一定の教育を受け、基本的には精神医学の教科書に準拠して勉強し、研究を行い、また治療を行う。それは内科や外科などのほかの科と同じである。そして精神医学にはDSMICDという、テクストではないにしてもそれに近い、時にはバイブルとさえ言われている診断基準がある。そして解離性障害及びその中の一つのタイプである解離性同一性障害はしっかり掲げられているのだ。ところがその症例を目の当たりにしても、精神科医の主流は「取り合わない」というのだ。これが何を意味するのだろうか?

これは他の科のことを考えればわかりやすいかもしれない。解離性障害は実は古くから記載されている病気である。そこで内科で古くから聞く病気「大腸カタル」という病気を考えよう。志賀直哉の小説に登場するような、何か古臭い病名だが、それが最新の内科学の教科書に一つの疾患として掲載されているとする。目の前の患者さんがその症状を示しているにもかかわらず、内科医がそれを取り合わないとしたらどういう事だろうか? しかも「取り合わない」という事はそれがあることを否定したり、訴えを聞かないという事であるが、内科医はその様な対処をするだろうか? 「あなたは大腸カタルではありませんよ」と言われた患者は、でも「腹痛がして下痢もします。大腸カタルの症状です。」と訴え続けても聞き入れてもらえないだろうか? もしそうだとしたらその内科医はとても信用が置けないことになる。(実は「大腸カタル」は大腸の炎症という意味で、現代の医学では部位によって盲腸炎,虫垂炎,エス状結腸炎に区別される。だからそもそも大腸カタルという診断名が現代の内科の教科書にはないだろう。そして実際の、普通の(主流の)内科医は、その症状を聞いて、「ああ、現代で言う大腸炎ですね」と正しく理解して治療を行うであろう。すると精神医学において解離性同一性障害を「取り合わない」という精神科医の対応はただ事ではないことになる。

ただし私はここで現代の精神医学の批判をしたいわけでも、その変革を唱えているわけでもないことは強調しておきたい。むしろその様な現実をもう少し明らかにしたいという思いの方が強いのだ。