2021年10月1日金曜日

あるインタビュー 3

 Q. 臨床家の自己愛についてのお考えは?

A. いいご質問ですね。まずは治療者の自己愛が直接的に絡む問題があります。一般に精神療法においては、治療者が自分を見つめるというプロセスはとても重要になります。患者さんはさまざまな感情表現をし、それが治療者を揺さぶることはたくさんあるでしょう。その一部は治療者の自己愛を傷つけるのです。でもこれはある程度は必然的に起きることです。治療者も人間で、様々な欠点や不十分さを抱えています。治療者と患者の関係が近付く過程で、患者は普通の人間としての治療者に気が付きます。それに治療者に対する恐れや近寄りがたさが少なくなるにつれて、様々な感情を表に出すことになります。すると例えば患者さんが「先生は私のことを少しもわかってくれない」と非難してくるというようなことが起きます。「結局先生は、あのわからずやの父親と大して変わらないじゃないの」、と言われることもあります。そして恐らくそれは一面の真実をついているわけです。おそらくそういわれて少しも心の動揺を覚えない治療者はいないでしょう。それは「患者さんの心をよく理解できる治療者である」という自己愛的な思い込みを揺さぶるわけです。それに耐えられずにその患者さんに対して苛立ちをあらわにしたり、「あなたこそ治療者である私の話を全然理解していない」と仕返しをするとそこで治療は終わってしまいます。このことをウィニコットが、治療者が患者さんの破壊性に生き残る、という言い方をしたわけですが、ですから治療者がどれだけ健全な自己愛を持っているかはとても治療者にとって重要なことになります。自分はたくさんの弱さを抱えて、患者の言うことを十分に理解できない中途半端な人間であるという点を受け入れていないと、つまり自己愛的であり過ぎると、このような患者さんからの感情表現に対して治療的に振舞えないということが起きます。そしてこれはおそらくその治療者がどれほどトレーニングを積んでも、十分には越えられない問題なのかもしれません。

臨床家の自己愛というテーマについては、もう一つ別の回答がありますが、こちらははるかに混み入っています。そしてこれは実は先ほどの、③の問題と深く絡んでいます。そしてこれはかなり深刻で、しかも微妙な問題でもあります。一言で言えば治療者が自己満足に捉われることが、治療関係に深刻な影響を与えかねず、それが結局は患者の利益につながらない結果となる可能性があるからです。最初に患者の苦しみの軽減、という事を申し上げました。それが治療者にとっての臨床の遣り甲斐に繋がるという事を言いました。しかし治療には、とくに精神分析には患者が自分の無意識についての洞察を獲得するという目的もあると言いました。これらをいかに達成するかという事と深く絡んでいるのが臨床家の自己愛です。臨床家にとっての自己愛とは、自分が優れた臨床家であるという自負です。通常は患者に利益をもたらすのが優れた臨床家になるわけですが、何が患者の利益かという事がとてつもなく複雑な議論なわけです。

すごく乱暴で、誤解を受けるような比喩ですが、あえて持ち出しましょう。空手道という武道があります。これには組手と形がありますね。形は東京オリンピックで初めて空手の形がオリンピック種目に加えられて皆さんおなじみかと思います。金メダルを取った喜友名諒や銀メダリストの清水希容さんの姿は目に焼き付いている方も多いでしょう。(彼らが美形であることも関係しているとしたら、これもまた「形式美」に貢献しているのでしょうか…)。もちろん両方とも空手の競技ですが、全く別の種類のものです。組手は強さを競う、と言っていいでしょう。また形は形式美を競うわけです。どちらに優劣をつけるべきものではないでしょう。ところが自己愛的な傾向がある空手家なら、組手こそが本当の空手道だ、とかいや形こそが本物だ、という議論になるかもしれません。形の選手は、組手で行われるのはもはや空手ではない、形に見られる動きが全くなく、一種のボクシングだ、というかもしれませんし、組手の選手は、形ばかりきれいでも勝負をして負けたら意味がない、というかもしれません。しかし形の選手は、いや空手道とは一つの道であり、そこでは勝負はあくまでも自分とのものなのだ、他の人と争っても、そこでの動きが「形崩れ」してしまえば、もう空手道の道を外れているのだ、という事になるでしょう。

さて精神分析とはこの両側面を持っているというところがあります。患者さんをよくしなくてはならないが、その手段は分析的な手法を用いたものでなくてはならないとします。そしてその手法はフロイトが100年前に唱えたことにおおむね沿ったところがあります。

ところがこの空手の比喩と精神分析の違いは、精神分析の場合には患者という利用者がいて、苦しみを抱えているということです。分析家はおそらくその患者さんの役に立とうと思うのですが、同時に分析という形を崩さずにそれを行おうとするところがあります。それは具体的には、匿名性とか禁欲原則、受け身性などの治療原則です。もし分析家の自己愛が患者の役に立ったというところで満たされるのではなく、正しいと彼が思う精神分析を行った、形を守った治療を行ったということにより満たされるとすればそれは問題でしょうね。