2021年4月5日月曜日

エッセイの書き直し 推敲 3

 以上のことから、このエッセイの一応の結論を述べよう。やはりハーマン先生のCPTSDの概念の提出は偉業であった。慢性のトラウマを体験した人々の精神障害についてのプロトタイプとして掲げられたCPTSD概念には大きな意義があり、ICD-11への掲載により、この問題に対する啓発という目的は達成された。ただしパーソナリティ障害とCPTSD関連という問題に関しては、一つの課題を残した。CPTSD≒従来のヒステリー≒DIDSDというところまではいいが、それが≒BPDであるという点は、その趣旨は分かるが単純化されすぎていたために、多くの識者の賛同を得られるに至っていない。私の個人的な意見としても、例えばDIDにみられる患者の性格特性とBPDは大きく異なる。DIDの方の場合は相手に対する配慮や自罰的な傾向が顕著である。ところがBPDの場合は気分にムラがあり、攻撃性や怒りはむしろ外に向かうという点で方向が逆なのである。私にとってはBPDの人はその気分のコントロールが不全な点においてある種の生得的な何かを持っているように感じられる。そしてそれが幼少時のトラウマなどによりさらにさまざまな形で修飾されているという印象を受ける。
 そのようなBPDの特徴と捉えるための概念として、私は最近提唱されているいわゆる「hyperbolic temperament」説に注目している。

Hopwood, C., Thomas, KM, Zanarini, MC (2012) Hyperbolic temperament and borderline personality disorder Personal Ment Health. 2012 February 1; 6(1): 22–32.

Zanarini MC, Frankenburg FR. The essential nature of borderline psychopathology. Journal of Personality Disorders. 2007; 21:518–535.

簡単に解説するならば、これはボストンの Zanarini グループが1900年代末に提唱した説であり、ボーダーラインの病理のエッセンスとして、Hyperbolic temperament による心の痛みが特徴であると説いた。ちなみにこの「hyperbolic」はうまく訳せない。「双曲線」、とか「誇張された」という意味だが、「Hyperbolic temperament 誇張気質」となると、とんでもない誤訳扱いされるだろう。そこでとりあえず「HT」と表記しておくことにする。
 彼らの2012年の論文を読むと、次のように記されている。BPDに関しては気質かそれとも成育環境(幼少時のトラウマ等も含まれる)かという議論がいろいろなされてきたが、結局両方が関係しているらしいということが分かってきている。そしてあくまでも気質の部分を取り出したのがこのHTであり、それは以下に要約される。
「容易に立腹し、結果として生じる持続的な憤りを鎮めるために、自分の心の痛みがいかに深刻なのかを他者にわかってもらうことを執拗に求める。 “easily take offense and to try to manage the resulting sense of perpetual umbrage by persistently insisting that others pay attention to the enormity of one's inner pain” (Zanarini & Frankenburg, 2007, p. 520).

かし私がこれを推しておいていうのもナンだが、これはDSMBPDの第一定義、すなわち「他者から見捨てられることを回避するための死に物狂いの努力」とあまり変わらない気がする。というよりは特定の他者へのしがみつき、という傾向についてはDSMの第一定義のほうが簡潔であるという気もする。さてHTはこれを「気質 temperament」としている。要は生まれつき、遺伝子(というよりはゲノム)により大きく規定されている、というわけだ。「でもこれって一種の行動パターンで、経験から出来上がったものではないの?」という疑問も成り立つ。しかしこれはICD-11が作成された過程でクリアーされているのだ。どういうことだろうか?

DSM-5ICD-11もいわゆるディメンショナルモデルを目指した。ディメンションモデルとは、ビッグ5の5つ特性を挙げている。つまりネガティブ情動、制縛性、脱抑制、非社交性、離隔、の5つである。しかし何とそこに精神病性と、BPD性が加わって7つになっているのだ。つまり「精神病性のパーソナリティとBPDに関しては、ビッグファイブでとらえられませんよ。だからBPD時代を一つの人格特性として挙げますよ。」というわけだ。これは要するに、BPDをディメンショナルモデルで描くことを放棄したことになる。つまりBPDはそれをいくつかの要素に分解するにはあまりにも多くの研究がなされ、治療法も考案されているからこれは特別扱いをして残しましょう、ということだ。HTを提唱した人たちからは、BPDを素因数分解されることに危機感を覚え、これだけは特別なものとして残したいという意図があったのかもしれない。でもこれは少しおかしなことでもある。
  最後に次のような比喩を考えてみる。日本にいつしかドラえもんに出てくる「のび太君」のような人が蔓延したとする。あの人もこの人も、まるで「のび太君」のようだということになり、「現代人はどうしてのび太君的になったのか?」などの本がベストセラーになったとする。そして精神科医が集まっていくつかのパーソナリティタイプを考えましょうということになり、おりしもディメンショナルモデルが流行っており、結局〇〇さんのパーソナリティは「軽度の『脱抑制』があり、中等度の『陰性感情』があり、ほとんどゼロの『非社交性』があり・・・・」などという形であらわす。ところがその最後に、「中等度『のび太君的』」という項目が付け加わったとしたらどうだろうか?「のび太君的って、それほど純粋で要素的なの? ということになってしまうが、人々はこの表現に満足する。「結局私たちが関心があるのはその人がどの程度『のび太君的』か、ということだからね。」というわけだ。

  この話は少し荒唐無稽だが、この「のび太君的」という代わりにボーダーライン的、とか発達障害的、とかを考えると少しわかりやすいのではないか。
  ともかくもハーマンさんにより始まった、BPDは幼少時のトラウマの結果かという議論は、BPDの病理を把握することの難しさをかえって際立たせたとは言えないだろうか。