2020年1月5日日曜日

脳科学と心のエッセイ 2


心と脳科学のあいだを揺らぐ必要性
さて私の立場はいわば心の問題と脳の問題を揺らぐ状態であるということだが、これにはそれなりのわけがある。それはどちらかに、より特化した人々に接した経験があり、彼らのどちらの立場も取っていたい、両方のあいだを揺らいでいたいと思ったという経験があるからだ。
私が勤務する大学の所属学部は教育学部である。そこにはたくさんの心理学者の先生方がたくさんいるが、心を扱う心理学者(臨床心理の専門家)と脳を扱う心理学者(認知心理学者、など)ではかなり毛色が違う。同じ大学の、それぞれがそれなりの学識と学問的なキャリアを積んだ方々が、どうしてこうも人の心に対して違うアプローチをするのかは非常に興味深い。
たとえば母子の関わり、という一つのテーマを取ってみよう。脳を扱う心理学者A先生は、ある実験を試みた。何人かの赤ちゃんを対象にして、ある言葉を発して、同時に皮膚に刺激を加える。他方のコントロール群には言葉だけで皮膚刺激は加えない。するとその言葉を後に聞いた時の赤ちゃんの脳波は、明らかに違いを示す。前者の赤ちゃんのほうが、より顕著な脳波の反応を示すのだ。このことは母子関係においていくつかの感覚のモードを併用した際に赤ちゃんがそれを習得するのを促進するという結果を示す。これは素晴らしい知見であると同時に、ある意味では私たちが常識的に考えていたことを証明したことになる。こちらを脳の心理学の例としよう。
他方心を扱う立場の心理学者B先生は臨床場面で一人のクライエントさんからこんなことを聞く。「お母さんは小さいころから決して私を抱っこしたり撫でてくれたりしませんでした。今でもそのことに怒りのような気分がこみ上げてきます。」B先生はそのクライエントさんがなかなか人と信頼に基づいた深い関係が築けないことに、その母子関係の持つ問題が影響していたのだと確信に近いものを得る…。こちらが心の心理学の例だ。
両者は幼少時の母子関係、という同じ問題を扱っていることは確かだ。ただ問題はA先生とB先生は同じ心理学者でも違う世界に住んでいて、お互いの世界で起きていることを知らず、そして多くは関心を持たず、場合によっては軽視しているということなのだ。それぞれが自分の研究や臨床に追われ、自分たちの所属する学会に出席し、全く異なるジャーナルに論文を発表する。そしてお互いの発表を聞く機会はおそらくきわめて少ない。そしてA先生とB先生がそれぞれの分野で業績を上げ、大学での地位を得るためには、それぞれの分野に専念する必要がある。互いの分野に注意を払っている暇はないのだ。
A先生とB先生が互いを軽視している可能性があると言ったが、それは多少極端に言えば次のようになるかもしれない。A先生「心の問題について、スペキュレーション(想像、推量)はいくらでもできるだろうが、確かな知見に基づくことにこそ意味がある。」B先生「科学的な知見には限界があるし、限局された事実を示されても臨床に役に立たない」。B先生はこうも言うかもしれない。「科学的な知見は、実は臨床的に私たちが知っていることを追認しているに過ぎない。」
これらは両先生が互いに批判を向けていることになるが、それぞれ何らかの正しさを含んでいると言えるだろう。しかしそれぞれが相手に批判的になるとしたら、そこにはある問題が潜む。それは自分がその分野に邁進していることを正当化するうえでそれ以外の立場を否定する必要が生じている可能性がある、ということだ。人は皆それぞれの立場の優位性を主張したいものだ。そしてそれは理論以上のもの、いわば自己愛に基づいた信念のようなものである。そこでそれ以外の立場を論理的に否定しようとする。レオン・フェスティンガーの「認知的不協和理論」は、このような私たちの心の動きをある程度は説明してくれるだろう。
さて私はこのどちらの立場も取っていたい。それはそれぞれを知ることが出来て応用できることはすばらしいことだからだ。私はこう考えたい。
「患者さんが母親に触れてもらえなかったことを思い出す気持ちはわかる。最近の母子関係の研究が示す通り、養育者の身体的な接触はその子の認知的、情緒的発達にきわめて大きな影響を及ぼすのは事実らしい。だからこの患者さんの幼児期の体験はその意味でも意味を持っていたのだろう。ただし彼の母親の立場からどう見ているかはまた別だろう。母親は実は小さいころは彼を結構抱っこしたり撫でたりしていたのかもしれないけれど、彼が多動で落ち着かなかったから、すぐ離れて行ってしまった、と言うかもしれない。あるいはその後に生まれた妹がたくさん愛情を注がれるのを見ていて、彼は自分にはそれが欠けていたと極端に考えるようになったのかもしれない。人の記憶はわからないものだ。それと人と親密になれない問題には、例えば父親とのトラウマ的な関係が関係していたのかもしれない。だから患者さんのこの訴えについては、それはそれで受け止めたうえで、他の色々な可能性も考えて行こう。」
私のこのような立場は中途半端だし、臨床プロパーの先生方には説得力に欠けると思われるかもしれない。「まず患者さんの話を信じることから治療者はスタートするべきだ」といわれるかもしれない。しかし現実に起きていることと心に起きていることのどちらにも重きを置くことは、いわゆる「決めつけない態度」を維持するうえで、とても大事なのだ。