2015年10月13日火曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後)第1章

私には加藤さん(仮名)という強い味方がある。彼女がちょっと読むと、たちまちおかしな文章を見つけて指摘してくれる。ここ数年は、事前に加藤さんに読んでもらっていない本は出していない。ということで今回もお世話になった。

はじめに
世の中は自己愛的な人間であふれている。自己愛的、とは英語でナルシシスティック narcissistic である。そこで本書では自己愛的な人について「ナルな人」とか「ナル人間」「ナルシシスト」という表現も用いよう。この方が雰囲気が伝わる場合があるからだ。
 ともかくもナル人間が最近多い。インターネットやスマートフォンがますます普及しているこの頃、ブログやツイッターで自己表現をする機会が増えたのも関係しているかもしれない。
 私はそれが別に悪いことだとは思っていない。私たちの中には、強いリーダーシップを取る人、断言口調でものを言う人、有無を言わさずに道を示してくれる人を求めている人もいるのだろう。たちの悪くないナル人間は、私たちの指導者の中にもたくさん混じっているのである。
 しかし問題は、私たち国民の99%は、おそらく自己愛的な人々により、気ままに、そしておそらくは悪い方向に人生を支配されている、ということなのだ。だからこの自己愛の問題を論じることは急務なのである。
自己愛的な人として私が本書で取り上げたいのは、何も傲慢な政治家や役人や上司、大学教授や医師や弁護士だけではない。家に帰れば、箸の持ち方、歯ブラシの使い方、トイレのフタの閉め方一つにまで指導をしてくる「大ボス」を持つ人もいるであろう。それはカミさんかもしれないし、亭主かもしれないし、年老いた母親かもしれない。気弱な人々(ナルとは対極の人々である)は、そのそばにいるだけで圧倒され、あるいは逆らうことが面倒臭くなり、結局支配され続ける。そうすることでナルな人たちとの関係は一応は安定するため、それらの人の存在は覆い隠されてしまうかもしれない。その意味での「隠れナル」はおそらくいたるところにいるはずだ。
 あるいは「あなただけにとってのナル」という存在もいるかもしれない。その人は会社で、家で、あなただけにぞんざいな口のきき方をし、暗に命令を下したりするが、他所では愛嬌をふりまき、好かれたりもする。そのため、同僚や上司にその人の評判をそれとなく聞いてみても、「Aさんって、そんな人じゃないよ。意外といい人だよ。」となる。逆にあなたの方が「Aさんを誤解しているんじゃない?」「あなたのやっかみじゃない?」などと言われてしまい、誰にも理解されずにさびしい思いをするのである。
本論でも詳しく述べるが、自己愛は人間の体力が増し、その能力も高まり、世の中で地位を築くにつれて、ごく自然に肥大してく性質のものだ。だから人生の後期により顕著になる。しかし子供には自己愛が見られないかと思えばそんなことはない。すでに幼稚園にはいじめが存在する。そのいじめの中心にいる何らかのボス的な存在は、将来の自己愛的人間の最有力候補である。
 私はこの自己愛の問題を困った問題だと思うが、それが現代における社会問題だとネガティブなとらえ方のみをするつもりはない。自己愛的な存在は、おそらくサルやオオカミなどの群生動物に特有な性質に関係している。偉そうに群れの中をのし歩くボスザルは、サル社会のナルシシストというわけだ。人間も同様に、社会の中で序列や順位を必要としている。要するに人と顔を合わせるたびに、どちらが強いか、となるわけだ。それを敏感に察知することから社会生活が始まる。その序列により生じる力学は、そこに秩序を与える。問題はその力学をいかに自分のために用いようとするかに専念する人たちがいるということだ。その傾向の強さにより、その人のナル度が決まるのだ。

1章 そもそも自己愛とは何か?

ナルシシズムの概念は、ギリシャ神話に出てくる少年ナルキッソス Νάρκισσος, Narkissosの話にさかのぼるとされる。
 ナルキッソスが森で水を飲もうとして湖の水面を見ると、美しい少年の姿がそこに見えた。もちろんそれはナルキッソス本人だったが、その姿を見て、ひと目で恋に落ちたナルキッソスはそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んだ、という話である。
 つまりナルシシズムとは、自分にほれ込む、自分におぼれるという意味を持つ。日本語の自己愛がその正確な訳かといえば議論があるようだが、一応ナルシシズム=自己愛、という関係はもう常識の範囲なので、専門家の間でもあまり疑問をもたれることはない。
 ところで私はこのナルキッソスの話を最初に聞いたときから、どうもしっくりこなかった。私はナルキッソスは水面に浮かんだ姿を「他人の姿」と思いこんでしまったのではないかと思うからだ。そこら辺のことは神話にも詳しくは書いていないのだが、他人だからこそ恋い焦がれたのではないか。人は、他人に恋するように自分に恋い焦がれることは絶対にない。恋する対象は自分からは見えないところにいて、いくらでも想像をかき立てられる存在でなくてはならない。恋はまだよく見えない対象に対してのみ成立する。だからこそ相手をもっと知りたい、もっと知りたい、という強烈な願望が芽生えるのだ。
 このように考えると、ナルキッソスがそうしたと言われるように、「自分に恋した」「自分にほれ込む」、という表現は実は普通は起きない現象ということになる。精神医学的にはそうだ。つまりナルキッソスの心に起きていたのは、美しい少年を、自分自身と気が付かずに恋してしまった、それだけである。しかしそうなるとナルキッソスはナルではなかったということになるので、ヤヤコシイ。そこでこの湖の神話のことは忘れて、本書では、自己愛=ナルシシズムを以下のように定義しよう。
自己愛とは、「自分はイケてる、カッコいい」という気持ちに浸って満足することを言う。自分の満足を優先する傾向、自己満足に浸る傾向として、単純に理解されるべきなのである。そしてそこで問題になってくるのが、その自己満足のためにいかに他人を踏み台にするか、自己の利益を他人のそれに優先させるか、という点である。その点に、社会に害を及ぼすタイプのナルシシストであるか否かがかかってくる。
私が述べている自己愛について、明石家さんまさんの例を出して説明しよう。昔テレビで大竹しのぶさんが、元夫のさんまさんについて話していた。ずいぶん昔のことだから詳しい表現は不確かだが、次のようなことを言っていた。「この人はバイキング形式のレストランに行くと、一人で食べ物を取りに行って、さっさと席について食べ始めちゃうような人なんです。」
 大竹さんは、さんまさんの自己中心的なところについて言っていたわけだが、このレストランでの行動に見られるように、彼には自分の欲求の満足をことのほか優先する傾向があるのだろう。しかし彼には同時に他人への気配りも旺盛であると聞く。また、確かに彼には自己陶酔的なところがあると私も思うが、それは彼が「自分に恋していた」ということとは違う。彼はあまり他人を困らせる典型的なナルではないということだ。
ところで社会に生きる私たちは自分の満足だけでなく、それが人の満足とどのような関係にあるかに常に注意しなくてはならない。それは突き詰めて言えば、「自分が満足することで、他人の満足の機会を奪ってはいないか?」ということだ。
 社会でうまくやっていける人の多くは、自分がハッピーで他人もハッピーな状態で、ようやく本当の意味でのハッピーさが長続きするという事情をわかっている。そしてそのためには、他人のハッピーさに関する想像力が必要になるのだ。
 一方、自分だけがハッピーになるためには、あまり想像力は必要ではない。自然と湧き上がってくる欲望に従えばいいからだ。すると人に迷惑をかける自己愛の人は、他人のハッピーさを想像する力が欠けている人、ということになる。すると自分の満足のことしか考えず、他人のことを顧みないことになり、それが周囲を怒らせたり、ガッカリさせたりするというわけだ。

自己愛の本質部分は「イケてる自己イメージ」との同一化だ

ここでもう少し本格的な自己愛の説明を加えておきたい。私の主張を繰り返す形になるが、自己愛=ナルシシズムを「自分を愛すること」と考える必要はない。自己愛とは「自己を愛する」という意味だが、実際にはそのような現象は起きない。そうではなく、自己愛とは「自分はイケてる、カッコいい」という気持ちに浸って満足する傾向だと理解しなくてはならない。この辺の説明がもう少し必要だろう。
私の学位論文は自己愛に関することだが、20年前の論文のテーマは今でも常に私の頭にある。それは、人の自己イメージには、理想化されたイメージと、駄目なイメージがあり、その間を頻繁に揺れている、という考えである。この二つに分かれた自己イメージという考え方がポイントだ。そしてこれは自己愛的な人のみならず、人間みなが持つ傾向だ。ただし自己愛的な人は、この二つの自己イメージの離れ具合がより大きい、という特徴はある。
人は育っていく過程で、親を見て、学校の先生を見て、クラスメートを見て、あるいは漫画を見て、ドラマを見て、「すごいな、あんなふうになりたいな」と思う人に出会うことがある。実際にその人になったことを想像することもある。一種のファンタジーを抱くのだ。子供の頃は特にこの傾向も、また能力も高い。
 たとえばクラスに成績が優秀な友達A君がいて、いつも漢字テストで100点を取るとしよう。あなたも「あんなふうになれたらな」と思う。でもすぐに現実に戻り、「でも自分はまだだな。テストでは50点も取れないし」という感覚を取り戻す。それが正常だ。
 ところがあなたが漢字テストで100点を取ることもたまにはあるだろう。するとそれを横から覗いた友達から、「すごいな、うらやましいな。Aみたいじゃん」と言われたりする。そして「あれ、僕ってA君みたいにすごいのかな?自分ってイケてるのかな。」と思う。実際にはいつも100点を取っているわけではないので、自分はA君とは違うのだが、それでもA君のようになったかの気分を味わう。そして少しの戸惑いとともに喜びを感じるだろう。自己愛とはたとえばこのような瞬間に体験される感情だ。
 それまで自分とは異なると思っていた姿に、自分が重ねあわされることによる快感。でもおそらく翌日のテストでA君はまた100点なのに、あなたは80点しか取れず、「ああ、やっぱり僕はA君じゃなかったんだ」となる。自分の現実の姿と、「イケてるイメージ」はふたたび大きく分かれてしまうのだ。
もちろんあなたが現実に100点を取らなくても、想像力を働かせたら、A君になれるし、そのときは自己満足を味わう。でもそれは、いわば偽りの喜びであり、次の瞬間には「でも、これって現実じゃないよね」という考えが生まれ、軽い失望を味わうことになるだろう。どうしてこの時の失望が「軽い」かといえば、想像力を働かせてA君になっているとき、「これは本当じゃないんだ」という認識が脳のどこかにすでに存在するからだ。これを現実検討能力という。これがあることで、自分自身に予防線を張り、偽りの自己満足はそのピークに達することはない。
 ところで人間はこの種の偽りの満足と失望を、それこそ毎日のように体験している。夏の暑い日に汗水流して働いているとしよう。ふと仕事の手を休め、「仕事が終わったらビールだ・・・・」と想像して、一瞬うっとりする。でも「あと仕事終了まで3時間だ。がんばらなきゃ」と現実に戻る。その時ビールをゴクゴク飲む自分を想像しても、それは本当の快感ではない。ただしちょっとした快感は味わう。そのため、「今、目の前にビールはない」という現実検討を取り戻した後も、ちょっとの快感を「味見」しているので、それを実際に体験しようと、仕事に励むことが出来る。人の脳はそのように出来ているのだ。
ふたたび二つの自己イメージの話に戻る。
自己愛(ナル)の本質部分は、「イケてる自己イメージ」を膨らませた時、それと自分を一瞬重ね合わせて「味見」をした時に、どれほど大きな快感を得るか、という問題に繋がる。この快感をどれほど強烈に体験しているかは、人によってさまざまに異なるが、大抵は思春期以降に明らかになるようだ。そしてこの快感がかなり大きいと、その人の人生はそれを追求することに支配されることになる。ある意味ではそれはその人の運命で、そこから逃れることはできない。
例としてイチローのような大リーグのスターになることを夢見ている野球少年を考えよう。夢の実現をイメージしたときにどれほどの喜びを体験しているかということでその人の自己愛のレベルが決まる。ここで注意してほしいのは以下の点だ。どれほどイケてる自己イメージにとらわれてしまうかが、彼の自己愛の深さを左右する。これはいわば自分をどこまでだませるか、ということにもなる。この少年が、体力も貧弱で才能のかけらもないのだが、その現実を踏まえず、それでも「俺は将来大リーガーだ!」と考えているとする。そして、実際に地元のリトルリーグに入団して、将来はアメリカに野球留学をするという、実現しそうもない計画を語るとしたら、周囲からはかなり困った少年に見られてしまうだろう。もちろん彼が非常に幼く、自分がいかに野球に向いていないかを自覚できない年齢ならば別であるが。
 でもその少年が自分の身の程を知っていて、イチローのようになるというファンタジーを楽しみつつも、実際には町の少年草野球チームの球拾いから始める覚悟であるならば、だれも彼のことをナルとは思わない。その場合イチローになることをいかに想像しようと、同時にそれが無理であることも分かっているはずであり、そこに自己陶酔は伴わないからだ。

これまでの議論から、自己愛を形作る重要な要素は以下の3つということになる。
1.イケてる自己イメージがどれほど高いところに位置しているか?
2.どこまでその自己イメージに同一化して、陶酔する(したがって、その分自分を偽る)ことが出来るのか?
3.自己陶酔を得るために、どれだけ他人を犠牲にするか?
このうち、1,2の度合いが大きいほど、その人のナルシシズムも深刻ということになる。その意味でこの二つは自己愛の中核的な問題なのだ。そして3の要素は、その自己愛が、人を困らせ、社会に害を及ぼすか、という点に関わる。
この議論をもとに、ナルシシズムをいくつかのパターンを分けて論じるのが、本書の趣旨である。