今日のところはほとんど半年前のコピペである。
以上の様々なさまざまな状況で子供の人格が出現するが、それは多くの場合、そうと気づかれずに見過ごされてしまう運命にある。親は「この子は時々幼稚なしゃべり方をする」「時々急に依存的になる」と考えるだけでそこに人格の交代が起きているという発想を持たない場合も多い。また子供の人格の方でも自分があまり受け入れられていないと感じられる状況では、すぐに姿を消してしまう場合も多く、また自分があまり相手にされない場合には「奥で大人しくしている」ことにより、結果的にその存在が見過ごされてしまうこともある。
子供の人格の成立の仕方
ところで子供の人格はなぜ成立するのだろうか? その子供の人格が出現する時に、常におびえたりパニックに陥った様子を示す場合には、それがある種のトラウマ体験を担っている可能性が高いことは言うまでもない。あるDIDの方の子供の人格は、毎日夜の決まった時間に出現する傾向にあるが、それはその方が幼少時に離別というトラウマ体験を持った時刻に一致している。別の方の子供の人格は両親の激しい争いごとを体験したままの状態で出現する。
これらの子供人格の出現のパターンを見る限り、これは一種のフラッシュバックの形式をとっていると考えていいであろう。フラッシュバックとは、PTSDの症状に特徴的とされ、ある種のトラウマをその時の知覚や感情とともにまざまざと再体験することである。そのフラッシュバックが「人格ごと生じる」という現象として、この子供の人格の出現を理解することが出来るだろう。
これらの子供人格の出現のパターンを見る限り、これは一種のフラッシュバックの形式をとっていると考えていいであろう。フラッシュバックとは、PTSDの症状に特徴的とされ、ある種のトラウマをその時の知覚や感情とともにまざまざと再体験することである。そのフラッシュバックが「人格ごと生じる」という現象として、この子供の人格の出現を理解することが出来るだろう。
他方ではいつも陽気にかつ無邪気にふるまう子供人格に出会うこともまれではない。別の人格を呼び出そうとDIDの方に協力を呼び掛けると、それとは異なった子供の人格が飛び出すということがある。あたかもその子供の人格は治療者と遊ぶ機会を待ち望み、呼ばれていた人格の代わりに出てきたかの印象を受ける。そのような様子で出現する子供の人格が深刻なトラウマを担っているかは定かでない場合も少なくない。特にその人格が他人との接触を求め、一緒に遊ぶことで喜びを表現するような場合には、その子供人格はそのDIDの方が幼少時に甘えや遊びを十分に体験できなかったことの代償と思えることも少なくないのである。
子供の人格への応対
「子供の人格が出たらどうしたらいいのですか?」という問いは、患者の家族からも、療法家からも頻繁に問われる。そこには二つの問いが含まれているといってよい。一つはこちらも相手を子供と見なして接するべきか否か、それとも大人が演じているものとして対応するべきかという問いであり、もう一つは子供の相手をまともにすることにより、子供の出現が定着してしまうのではないかという問いである。
この両方の問いは、どちらも解離の本質に迫り、かつ非常に大きな誤解を伴った問いと言えるだろう。まずは最初の問いである。あくまでも子どもとして接するべきであろうか?
まずシンプルな答え方としては、「もちろん子供として接するべきである」と言いたい。子供の人格の出現は、例えていうならば、最初は治療者と話していた母親の娘が、突然入室してきたようなものである。そのような場合、治療者はどうするべきだろうか。
その時に治療者がその子供に対して、「大人が演じているものとして」対応するとしたら、「あなたは子供のように私に甘えたいんですね。」となるであろうが、その子供は何のことが分からなくてきょとんとした目をするだけだろう。話しかけているのは母親に対してではなく、あくまでも子供自身に対してだからである。
ただし私のこのたとえでは、子供の横に母親がいるというところが重要である。実際に子供の人格が登場する時に、背後に大人の人格が見え隠れすることが多い。やはり子供の人格だけでは心配ということだろうか。子供の人格が前面に出ていて、大人の人格が後ろで観察しているという場合も多い。するとその大人の人格は治療者の様子を見て「ああ、この治療者は私の子供の人格のことを受け入れてくれないようね。じゃ私が代わらなくちゃ。」ということになったりもする。ここにはその治療者に対する「気遣い」すらありうる。そして子供の人格が引っ込んで大人の人格が再び登場すると、治療者はこう言うかもしれない。「多重人格と言われる人たちの別人格、例えば子供の人格は、それを扱うことで出続けるのです。私は扱わない主義なので子供の人格などは出てきません。その意味でDIDは医原性ともいえるのです。」。子供の人格がこの様に時には中途半端で、治療者の対応の仕方に応じて変わることは、一部の治療者の解離現象に対する無理解を助長することにもつながるのである。
その時に治療者がその子供に対して、「大人が演じているものとして」対応するとしたら、「あなたは子供のように私に甘えたいんですね。」となるであろうが、その子供は何のことが分からなくてきょとんとした目をするだけだろう。話しかけているのは母親に対してではなく、あくまでも子供自身に対してだからである。
ただし私のこのたとえでは、子供の横に母親がいるというところが重要である。実際に子供の人格が登場する時に、背後に大人の人格が見え隠れすることが多い。やはり子供の人格だけでは心配ということだろうか。子供の人格が前面に出ていて、大人の人格が後ろで観察しているという場合も多い。するとその大人の人格は治療者の様子を見て「ああ、この治療者は私の子供の人格のことを受け入れてくれないようね。じゃ私が代わらなくちゃ。」ということになったりもする。ここにはその治療者に対する「気遣い」すらありうる。そして子供の人格が引っ込んで大人の人格が再び登場すると、治療者はこう言うかもしれない。「多重人格と言われる人たちの別人格、例えば子供の人格は、それを扱うことで出続けるのです。私は扱わない主義なので子供の人格などは出てきません。その意味でDIDは医原性ともいえるのです。」。子供の人格がこの様に時には中途半端で、治療者の対応の仕方に応じて変わることは、一部の治療者の解離現象に対する無理解を助長することにもつながるのである。