2025年1月31日金曜日

ビリーミリガンを超えて 1

 アイパッドに入っている本や雑誌をいろいろ探しているうちに、25年前に出たユリイカ (2000年5月号、特集:多重人格と文学)を見つけ出した。そして懐かしの安克昌先生の「多重人格とは何か」という論文が出て来た。私も寄稿したのでこの号を持っているわけだが、44歳の時に書いたものだ。(「米国における多重人格の臨床」)一体あの頃何を考えていたのかがわかって面白い。ちなみに安先生は1860年生まれ、私が4歳年上であり、一度生前にお目にかかったことがある。

 その論文で安先生は7年前に初めてDIDの方と会った、と書いてある。ということは1993年。安先生が33歳のころ、ということになる。(実は私が最初にDIDの方と会ったのは、1992年でほとんど一緒である。)そして安先生はそのころはダニエル・キイスの「24人のビリー・ミリガン」がベストセラーになり、連続幼女殺人事件の宮崎勤被告が多重人格であるという鑑定結果が発表されて、世論の関心は一挙に高まり、それがいま(つまり2000年の段階)でも続いている、と書いてある。それからDIDをめぐる問題はどの程度代わってきたのであろうか。

 ちなみに24人の…の日本語版は1992年に発刊。宮崎勤事件(1989年)の鑑定結果が公になったのは1992年である。

 私はこの「24人の・・・・」もアイパッドに持っているが、読み始めてすぐに挫折して、ちゃんと読んだことがない。何しろ登場人物が多すぎて覚えきれないのだ。


2025年1月30日木曜日

統合論と「解離能」 20

 まとめ

 解離は一つの心の機能であり、それは能力(「解離能」)であると同時に、機能不全を起こすことで生活上の支障ともなりうる。そして治療の目標を統合に置く「統合主義」は、解離を病理としてのみとらえ、その解消を目的としているとは言えないだろうか?

解離能を考える立場としては、解離の能力にある種の健全さや必然性、ないしは防衛手段としての意味を持つことになる。すると解離により生まれた交代人格についてもそれを病的なものとしてではなく、より自然なものとしてとらえるという方針が成り立る。すなわち交代人格は「パーツ」と捉えるのではなく、固有の人格として認め、遇するべきなのである。

本稿のも一つの論点は解離の治療者に技巧は必要なく、普通の、あるいはまっとうな心理療法でいいということであるが、それはこの第一の論点、すなわち統合が目標ではないということとも深く関係してくる。つまり統合を目指す場合にはある種の操作が必要になり、いわば教科書に掲げられるような手順が必要になる。いわばマニュアル的な治療プロセスが描かれることになるのだ。それが例えばポールセンのテキストになるのである。

それでは当たり前の、普通な治療とは何か。それはその日に出ている人格(「来談人格」)との一合一会を大切にし、その人格の抱えるトラウマを注意深く扱う。ただし常に背後の複数の人格に話しかけている意識を忘れず、また必要に応じて別人格と接触する用意があるべきである。それらとしては以下を挙げておこう。

① 「来談人格」とは別の人格が面接時に自然に出現した場合。


2025年1月29日水曜日

統合論と「解離能」 19

ということで、私はこの論考の冒頭でも紹介したある当事者の主張に戻りたい。 「解離は精神疾患であると同時に、サバイバルするための力でもある。」(p.1085)「解離が出来たからこそ生きのびることが出来たのであれば、それは能力であり、ゼロにしてしまう必要はないはずです。」(p.1085) これは解離とともに生きている当事者が持つ実感であろう。しかも Richardson の主張とも共通するが、 彼らは解離を健全なものであると主張しているわけではない。これは適応的に働く場合もあれば、それがうまく働かなくなる場合もある、一つの機能なのである。それは例えば心臓が血液を全身に拍出するという機能を有するものの、その機能が働かなくなる状態(すなわち心不全)にもなりうるような存在であるのと似ている。さらに言えば、解離という機能は実は私たちの中枢神経系でどのような働きをしているかの詳細はおそらくわかっていないのだ。ひょっとしたら私たちが抑圧とか抑制とか、否認などと呼んでいる働きはある特殊な形の解離である可能性すらあると私は考えている。

中島幸子(2024)「解離は障害でもあり、力でもある」    精神医学66巻8号pp. 1085-1089. 

解離において別人格の存在をどのように認識するかについては難しい問題だが、やはり結局は「他者」ということに行きついてしまう。何度も出した野口五郎さんの例は今回は控えるが、自分の中でもう一人の自分と出会うことである種の衝撃を受けるとしたら、そのもう一人の自分は十分に異質的な存在でなくてはならないだろう。自分の中で知らなかった自分に出会う、とは実は治癒機序にしっかり組み込まれているのかもしれないと考える。治療者によるミラリングにより照らし返された自分はもう一人の自分、ということかもしれない。

(以下略)

2025年1月28日火曜日

統合論と「解離能」 18

 このテーマについて考えるうえでとても参考になる論文を見つけた。RF. リチャードソンという人の「解離:機能的な機能不全」という論文である。

Richardson RF. (2019) Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 9(4):207-210.

この論文は解離を一つの機能として理解している。

彼の引用から。

「もしある現実の一部が対応するにはあまりに苦痛な場合に、私たちの心は何をするのだろうか。痛みに対する生理的な反応が生じるのと同様に、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。その一つのメカニズムが解離だ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常的な機能を継続することを可能にしてくれるのだ。」


Richardson解離は人間ないしはあるいは生命体に備わった一種のブレイカーのようなものと考えているようだ。電気を使い過ぎるとカタッと下りる、あれだ。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。
私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで生まれる何かだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。何かのストレスが働き、体のブレイカーが勝手に下り、それが解除されるというプロセスである。

この論文で Rory Fleming Richardson は、心の機能を病的なものとしてしか見ないのは間違いであると指摘する。そして解離もそれに類するものだという。そして私たちが情緒的に耐えがたい体験をする際に、解離が緩衝材 buffer となることは、それにより今すべきことをするためには重要な働きであるという。

ところでRichardsonはp.208あたりで統合を薦めないいくつかの理由を挙げているのが興味深い。

1.ある特殊な能力を持ち高度の機能を果たしていた人格にアクセスできなくなる可能性。

2.患者が再び孤独になる可能性。

3.何時もそこにいなくてはならなくなる可能性。

そしてp.209あたりでさらに過激になっている。治療の目標は解離を絶やさないことだ。解離は必要であり、緊急の際に自らを離脱させるために必要なのだという。さらには自らの立場から離れて他者に共感することもできない、という。相手の立場をとる、ということが一種の解離だという論法である。

実はこの部分を書いていて私は新たな認識を得たという気がする。よくあるトラウマの際に人格が分かれる break off という表現を見かけるが(この Richardson 先生も同様である)、私はこれまでその考え方に抵抗があった。いかにも人格=断片、パーツ、というニュアンスを持ったからだ。しかしそれが人格の成立に関わる可能性は少なくないのではないか。つまり break off した部分は、次の瞬間からすぐに自律性を獲得するのである。それは複雑系の基本的な性質なのだ。たとえば切り出した心臓を幾つかに分解したら、それぞれが独自のリズムの拍動を開始するという事情と同じである。むしろ自律性を失うのは、他の部分との連結が生じている時である。左右脳のことを考えると、それぞれが自律性を獲得するのは脳梁が離断されたときである。  


2025年1月27日月曜日

統合論と「解離能」 17

解離能の問題
この話のとっかかりは、体外離脱体験(OBE)が示唆するものについてである。私はOBEを解離体験のプロトタイプと考えているが、それは統合不全、DBSの表れとして理解できるだろうか?
そもそも体外離脱体験自身は一般人の数%の人が経験している。これは病的体験とばかりは言えず、場合によっては優れた能力と考えることが出来る。私たちは対自存在であるとともに対他存在でもある(サルトル)。ところがOBEにおいて生じているような解離における「存在者としての私」と「まなざす私」の分離は、対自存在のあり方をまさに血肉化したような現象であるといえる。そして一般人のごく一部の人たちにしか体験されないものである。これをある種の特権ないし能力ととらえる根拠は十分にあるだろう。つまりこれは一つの能力なのだ。これをここでは「解離能 dissociative capability」と呼ぶことにしよう。
「解離能」については、J.ハーマンの「解離能」の概念を参照したい。
ハーマン (1992) は「トラウマと回復」の中で、トラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてそれがあるかないかでDIDとBPDの病理を分けて論じた。
DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。
BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。
少なくともこの概念化の特長は、解離を一つの病理とばかりはとらえていない点である。つまりそれは人が潜在的に持っている能力か、あるいは一部の人間に備わっている能力としてみる立場を示しているのだ。

2025年1月26日日曜日

統合論と「解離能」 16

 ここら辺は繰り返しの「愚痴」のようなものになるが、統合派はそこに至るための「交代人格の有するトラウマの解決」とサラッと言いすぎる感がある。それは催眠の手技などにより簡単に達成できるのであろうか?一つのトラウマの解決だけでも長期的な治療目標となっているケースがあまりに多い。

催眠を用いた「処理」は操作的でそれを受け入れない患者も多いのではないか。やはり統合は「絵に描いた餅」と言わざるを得ないのではないか?

ワトキンス夫妻やパットナム(DBS)やハウエル(相互文脈化)は、無理に統合せず、人格のいくつかの側面として残しておけばいいではないかという、より受け入れやすい立場と言えるが、それぞれの人格の独自性を認めない傾向がある。


ちなみにこの講演は録音したものを「CLOVA文字起こし」なるソフトで文字にしているので、そのまま書き写してみよう。

で統合派統合主義はそこに至るための抗体比較の有するトラウマの解決っていうふうにさらっと言うんだけども、それは催眠の主義などにより簡単に達成できるのかっていうのがええ。実際に催眠を常に用いていない立場からは数字を覚えてしまう一つのトラウマの解決だけでも長期的な治療目標となっているケースがあまりに多い。これ確かにそうで、(中略)はもう何年もできる。

これだけでは何のことかわからないが、ソフトにはその部分の録音を再生できる仕組みになっていて、それを聞きなおしながら訂正すると以下のようになった。

 統合派統合主義はそこに至るための交代人格の有するトラウマの解決っていうふうに、サラっと言うだけども、それは催眠の手技などにより簡単に達成できるのか、と言うか実際に催眠を常に用いていない立場からは違和感を覚えてしまいます。一つのトラウマの解決だけでも長期的な治療目標となっているケースがあまりに多い。これ確かにそうで、私のあるケースは(中略)何年も続いています。」

確かにこれだけやってくれるだけでもソフトとしては悪くない。しかし月々2000円を支払って使う価値があるのかといえば、うーん、となってしまう。


2025年1月25日土曜日

統合論と「解離能」 15

統合についての考察

 さてここでこれまでの議論をまとめてみよう。ISSTDの最新のガイドラインを見た限り、統合から協調に方針を転換していることはかなり明らかである。この論考のテーマからすれば、この点を確かめるだけでもある程度は目的を達成できたかもしれない。しかしあえて最近の解離の治療論をいくつかピックアップして論じてみたのだ。

まず印象としては、ハウエル 先生による折衷案としての「相互文脈化」は一考の余地がある。論理的には一番収まり具合がいいのではないか。統合か、協調か、という二者択一を回避できるというのも、ハウエル先生のおっしゃる通りだろう。しかし他方では自我状態療法に由来する流れの中では、(例外的に?)ポールセンが明確に統合を目指し、またこちらは自我状態療法にどの程度近いかどうかは別として、小栗先生のUSPTもまた明確に統合を目指している。

一般論として言えば自我状態療法では催眠に由来するだけあり、催眠やEMDRなどの基本的な手技を治療手段として用いることを前提としている。そしてそれにより患者の心を操作するというニュアンスが強く、その流れの中で自然と統合が目指されているようである。

 ちょっと思いついた例えだが、武道について考えよう。剣道においては竹刀を用いないということはあり得ない。すると攻撃は竹刀によるある種の打撃に限定されることになる。そこに足払いや関節技や寝技などは出て来ようがない。流派によってはあるかもしれないが、邪道扱いされておしまいではないだろうか。何しろそれらは竹刀を使わないからだ。ところが竹刀を用いない徒手空拳で行う武道(すなわち柔道や合気道)なら、打撃以外の多彩な技が考えられるであろう。

 あるいは別の例えも思いついた。外科医なら外科手術しか治療手段はないことになる。メスを用いない外科的な手技などないだろう。それは勢い侵襲的になり、病巣の除去という最終目標も変わることはないであろう。(もちろん産科手術、移植手術などの場合は例外であるが。) ところが内科学の場合は、外科的侵襲以外の様々な治療が自在に選べることになる。

 トラウマの治療でもトラウマ記憶の想起や人格の融合、統合といったドラマティックな介入以外の治療が自在に求められる。いわばマネジメントの役割が極めて大きくなるのだ。再び先ほどの例えを持ち出すならば、剣道なら竹刀を交える前の心理戦や駆け引きが勝敗にかなり大きなウェイトを占める。あるいは外科手術であれば、それを行う前のムンテラや心の準備や手術野の消毒などが手術そのものよりも大きな意味を持つ。(実際にその様な「手術」などあり得ないかもしれないが。)