2024年11月16日土曜日

解離における知覚体験 12

 (記載としては前後するが)幻覚体験が様ざまな精神・神経学的病理と関連していることについては、オリバー・サックスのユニークな書「幻覚の脳科学」が非常に参考になる。

Sacks, O (2012) Hallucinations.  Vintage. 太田直子訳(2014)幻覚の脳科学 見てしまう人びと. 早川書房.

そこではサックスは脳の一部の過活動により幻覚が現れるメカニズムについて論じている。いわゆるシャルル・ボネ症候群(CBS)は希なものとされていたが、実は盲目の患者の多くに奇妙な幻覚体験が聞かれることを示している。CBSにおいては大脳皮質に対して入力が途切れた場合、そこに何らかのイメージが投影され、それが幻覚体験となって表れることがある。これについていみじくもサックスは次のように述べている。(P.39)「CBSについての報告が、1902年、すなわちフロイトの夢判断が刊行された二年後に心理学雑誌で公表された時に、CBSも夢と同じように「無意識に至る王道」と考える人もいたという。しかしこの幻覚を「解釈」しようとする試みは実を結ばなかったとある。そして内容に没入する夢と違い、CBSの患者は冷めた目でそれを観察し、「その内容自体は中立的で感情を伝えることも引き起こすこともない。」

このCBSの話で思い出されるのが、感覚遮断の問題だ。これは「囚人の映画」と呼ばれるという(p.52)。囚人が明かりのない地下牢に閉じ込められると、様々な心像や幻覚を見るようになるという。しかもそれは感覚遮断の状態である必要はない。単調な刺激でも起きるという。
サックスの記述する囚人たちの体験する幻覚の進行具合はとても興味深い。最初はスクリーンに映し出される感じだが、そのうち圧倒的な三次元になる。そしてこう書かれている。「被検者たちは最初ビックリして、そのあと幻覚を面白い、興味深い、時にはうるさいと思うが、まったく『意味』はないとする傾向があった」(p.54)。ここが私が注目するところである。この(自分にとっての)意味のなさが他者性としての性質を帯び、それはまさに解離性の幻覚も同様であるということが言いたいのである。

サックスがp.59で強調していることはとても大事だ。彼はある芸術家に感覚遮断をして幻覚を体験した際のMRIを撮ったところ、後頭葉と下部側頭葉という視覚系が活性化されたという。そして彼が想像力を働かせて得た視覚心像由来の幻覚では、ここに前頭前皮質の活動が加わったという。つまり幻覚の場合は、トップダウンではなく、「正常な感覚入力の欠如により異常に興奮しやすくなった腹側視覚路の領域が、直接ボトムアップで活性化した結果なのだ。」(p.59)ということになる。つまり私たちにとっての幻覚は、前頭前野が関わっているかどうかにより全く異なることになるわけである。これは知覚と表象の違いということで一般化できるかもしれない。
サックスはp.251で、トップダウンとボトムアップの違いについて再び整理しているが、ここは私自身の理解と若干違う。彼は夢はトップダウンであるという。それは個人的な特性があり、大抵は前日にあったことなどを反映している。それに比べて入眠時幻覚は「概ね感覚的で、色や細部が強化又は誇張され、輪郭、硬度、ゆがみ、増殖、ズームアップを伴う。」しかしこのように説明した後サックスは、結局脳の信号の伝達は両方向性であり、トップダウンか゚ボトムアップかを二者択一的には決められないということを言っているが、私もその通りだと思う。どちらの方が優勢か、ということだ。

サックスの「幻覚の科学」の第13章「取りつかれた心」(p.276~)は事実上解離性障害について扱っているという意味ではとても参考になる。最初にトラウマのフラッシュバックは、これまでのCBS、感覚遮断、薬物中毒、入眠状態などと基本的に異なるとする。つまりそれは本質的に過去の経験への「強制的回帰である」とする。それは「意味のある過去」だというのだ。そしてブロイアーやフロイトが扱ったアンナO.について述べ、解離の概念の重要さについても言及する。サックスもアンナO.に注目していたというのは興味深い。

ところでp.313には重要な記述がある。「ブランケ脳の右角回の特定の部位を刺激すると、軽くなって浮遊する感覚や身体イメージの変化だけでなく体外離脱体験も必ず起こることを実証することが出来た。」ブランケは言うという。「角回は身体イメージと重力に関係する前庭感覚を仲立ちする回路の極めて重要な結節点であり、『自己が体から解離する体験は、体からの情報と前庭情報を統合できない結果である』と推測している。」(p.313)と書いている。やはり統合できないのが問題だというのか。サックスでも。私には「外から眺めるという回路」が誰にでも備わっているという気がする。それが普段は眠っている状態なのが、解放されるのが解離である、という立場だ。


2024年11月15日金曜日

男性の性加害 3

 前回のヒジャーブの話からのスピンオフ。はちょうど次のような男性の言葉を反映していると思われる。「女性が露出の多い服を着ているのが男性の劣情を掻き立ててしまい、それがいけないのだ」という議論である。

ところで私はこのテーマで本ブログの2011年1月12日のエントリーで次のような内容の文章を書いた。(以下再録)

今日はあるクライエントさん(20代女性)から話を聞いた。女性にとってのかわいい、とは何か。彼女はジーンズやパンツよりはスカートがかわいい、という。だから自分はそれをはいている。それはキュロットでは表現できないかわいさだという。しかしそれはセクシュアルな意味があまりないようである。なぜなら「男性の目は関係ない」と言い切るからだ。女性はかわいく見せたいし、女性の間でもかわいさを競うというところがあるという。女子高であってもそれは同じだそうだ。
この女性の追及するかわいさが、セックスアピールとは微妙に、あるいは明らかに異なるという点は重要であろう。男性が女性のかわいさを魅力的と感じたとしても、そこにはどこか倒錯的なところがある。秋葉原でメイド服を着た女性たちに対して男性はそこに一種倒錯的(オタク的)な視線を向けることになる。それは女性たちがセックスアピールとは異なる「かわいさ」を発散しているつもりでも男性はそこに性的な魅力を覚えてしまうということになる。

確かにかわいい、はセクシュアリティと関係しているようでしていない部分がある。彼女たちはアクセサリーを見ても「かわいい!」と言ったりする。うちのカミさんは、コーヒーカップも、トイレの便座カバーも、明らかに「かわいい」(彼女にとって)ものを買ってくる。そしてそのかわいいはもちろん、うちの犬チビの「かわいい!」とも結びつく。子犬、子猫の「かわいさ」は言うまでもない。そして … 人間の赤ちゃんを見たときの「かわいい」にもつながっているかもしれない。そう、女性にとってのかわいいは、幼児を見たときの「かわいい」に通じるところがある。しかしではどうして彼女たち自身が「かわい」くありたいのだろうか?動物学的に考えたら、男性を惹きつけるために女性がかわいくありたいとしたら、繁殖にむすびつくという意味では合目的的である。しかし繰り返すが、彼女たちがかわいさを追求する際にそこに男性の目はあまり意識されていないのである。
自分もかわいくありたく、そしてかわいいものにひかれるというこの女性の特徴は、女性に特有の対象との同一化傾向と関係しているのかも知れない。対象の気持ちが分かり、対象に同一化し、対象を取り入れ、また対象の中に自分を見る。この傾向が、私がつねづね考える「関係性のストレス」と繋がっているかも知れないと思うのは飛躍であろうか。

何か締まりのない文章だが、一応参考にしよう。


2024年11月14日木曜日

解離における知覚体験 11

解離性幻覚とトラウマ

病的な知覚体験としてしばしば論じられるのがいわゆるフラッシュバックに伴う体験である。PTSDなどのトラウマ関連障害で患者は過去のトラウマ体験が突然知覚、感覚、情緒体験と共に蘇る。この体験を解離の文脈でどのように位置づけるかは議論が多いところだが、DSM-5(2013)に新しく加わった記述は注目を浴びた。それはPTSDの診断基準の一つに「フラッシュバックなどの解離体験」という表現が加わったことである。つまり通常言われるフラッシュバックを解離性のものとして理解する方針が示されたのだ。(より正確には、「トラウマ的な出来事が再現されているかのように感じたり行動したりする解離反応(例えばフラッシュバック)dissociative reactions (e.g. flashbacks」in which the individual feels or acts as if the traumatic event(s) were recurring) と書かれている。)

この傾向は2013年にDSM-5が発刊された時点でそれまでのPTSDの理解がより「解離より」になったことを反映しているだろう。DSM-5においては「解離タイプ」が新たに盛り込まれる予定であったが、実際には特定項目として扱われることになった。つまり解離症状がある場合には「解離を伴うPTSD」と特定することとなった。それは離人体験かまたは非現実体験とされる。

近年の研究でも、解離傾向と幻覚体験及びトラウマについての相関性を示す研究が複数みられる。

Jones, O., Hughes-Ruiz, L., & Vass, V. (2023). Investigating hallucination-proneness, dissociative experiences and trauma in the general population. Psychosis, 16(3), 233–242.

Jones et al (2023) によれば、幻覚体験には、解離が深く絡んでいると言われ(Longden et al, 2012)るが、彼らの研究では、トラウマと幻覚傾向 hallucination -proneness には顕著な関係が見られ、そのトラウマが深刻であるほど、幻覚も深刻であるという関係が見いだされたという。そして解離と幻覚傾向にも顕著な相関があったという。つまり主観的なトラウマ体験と幻覚体験を仲介しているのが解離ということだ。もう少しわかりやすく言えば、トラウマを負った人に解離が顕著で、それだけ幻覚を体験しやすいということだ。


2024年11月13日水曜日

解離における知覚体験 10

統合失調症との鑑別

ここまで解離性の幻覚についてこれまで論じてきたが、ここで特に統合失調症との鑑別で論じることには特別の意味があるであろう。というのも従来幻覚体験、特に幻聴はしばしば統合失調症にとって極めて特異的な病理ん現象として理解される傾向にあったからである。

このテーマに関しては柴山の記述を参考にしよう。(柴山雅俊(2017)解離の舞台 症状構造と治療 金剛出版.)

P209では「第14章 解離性障害と統合失調症」として知覚異常に触れている。特に解離性障害で見られる幻聴には二種類ある、と明記している。

1.フラッシュバック しばしばこれが解離性幻聴であるとされがちだが、その一部にすぎないとする。

2,交代人格(不全型も含む)に由来する幻聴。特に「死んでしまえ」などの攻撃的なものや「こっちにおいで」という別の世界へ誘いかける内容などで、これはフラッシュバックとは異なる、としている。さらに解離性の幻聴は、患者の気分との連続性が見られることが多い、とも言う。そして幻聴の主を対象化、すなわち特定できることが多く、これは統合失調症の際の把握できない、不明の主体であることとかなり異なるとする。そして柴山が特に強調するのが、統合失調症における他者の先行性という特徴だ。少し長いが引用しよう。
「概して統合失調症の幻聴は、自分の動きに敏感に反応して、外部から唐突に聞こえる不明の他者の声である。そこには自己の医師や感情との連続性は認められない。その声は断片的であり、基本的にその幻聴主体を対象化することは不可能なものとしてある。幻聴の意図するところは、常に把握できない部分を含んでいる。従ってその体験はある種の驚きと困惑を伴っている。それに対して解離性障害では、他者の対象化の可能性は原理的に保たれており、不意打ち、驚き、当惑といった要素は少ない。」


2024年11月12日火曜日

解離における知覚体験 9

 その一例としてアンナO.を取り上げよう。

<症例アンナO.に見られる幻覚>

ブロイアーとフロイトによる著作「ヒステリー研究」(1895)の最初に記載されているアンナO.の示す症状は、ある意味では解離性障害が示しうる症状群を一挙に紹介してくれるという意味ではとても象徴的である。その中で彼女がどの様な文脈の中で幻覚ないし知覚異常を示したかを知る上でも簡単にさらっておこう。

アンナO.の発症は多くの症状の複合したもの、つまり「特有の精神病、錯語、内斜視、重篤な視覚障害、手足や首の完全な、ないし部分的な拘縮性麻痺である(フロイト全集、p.25)。これは彼女が敬愛する父親の発病をきっかけに始まった。そして自分も徐々に憔悴し、激しい咳と吐き気のためにアンナは父の看病から外される。ここでブロイアーが呼ばれたが、ブロイアーはアンナが二つの異なる意識状態を示すことに気が付く。一つは正常な彼女だが、もう一つは気性が荒く、又常に幻覚を見、周囲の人をののしったり枕を投げつけたりしたという。
その幻覚については、彼女の髪やひもが黒い蛇となって表れた。最初は午後の傾眠状態で現れたが、錯語(言語の解体)や手足の拘縮も起きていた。この視覚異常に関しては特定の色だけ、例えば自分の服の色だけ、茶色なのはわかっているのに青に見える、などのことも後に起きたという。(p.39)そしてそれは父親が来ていたガウンの青色が関係していることが分かったということだ。

ここで興味深いのは幻覚はそれ自身が単独で起きるというよりは意識の混濁や言語の解体や手足の拘縮などと一緒に生じていたということである。つまり彼女は身体運動、言語機能、情動の表出,咳や吐き気などの自律神経機能の異常などとともに知覚異常(錯覚、幻覚)を体験したのだ。
これらの知覚異常はいわば解離性の陽性症状といえるが、ブロイアーはアンナに見られた聴覚異常についても丹念に記録している。それは誰かが入ってきても、それが聞こえない、人の話が理解できない、直接話しかけられても聞こえない、物事に驚愕すると急に聞こえなくなる、などである。(p.43)

ここでアンナの視覚、聴覚異常についていえば、視覚においては陽性症状としての幻覚、聴覚に関してはもっぱら陰性症状としての聴覚脱失であるが、それが浮動性を有し、様々な形をとっているということが特徴的である。(自分の服の色の誤認の例など。)そしてそれらはまた「語ることで除去」されるという性質を持っていたのであ(p.41)。つまりDSM-5に記されている解離性の幻覚体験の特徴を備えていたのだ。


2024年11月11日月曜日

男性の性加害 2

 男性の性加害との関連で、「戦争と文化的トラウマ 日本における第二次世界大戦の長期的影響」(竹島 正, 森 茂起, 中村 江里 (編) 日本評論社、2023年.)を少しずつ読んでいるが、そこに加害による心的トラウマの話が出てくる。確かに戦時中に上官の命令により敵地で民間人を撃ったという体験が亡霊のように付きまとうという心的外傷を負った戦闘兵が沢山いる。この意味での「加害トラウマ」という用語はすでにあるようだ。 加害トラウマと男性性の悲劇性との関連で言えば、男性は常にその存在により既に加害性を負っているという感覚がある。これはちょうど女性が男性を見るとそこに潜在的な加害者像を投影するというのと表裏の関係にあるかもしれない。どこかのビーチでビデオを回していた人が盗撮の疑いをかけられたという話を聞いた。あるいは電車で向かい側に座っている女性を携帯で写したところ、その女性の男性のパートナーに糾弾されたというような話も聞いたことがある。 これについて調べていると、弁護士ドットコムニュースにそれについての記載があった。少し長いが、私にとってはとても有益な情報なので引用する。https://www.bengo4.com/c_23/n_8410/

電車の座席にいる人の顔を盗撮することは、犯罪になるのでしょうか。「電車の座席にいる人の顔を盗撮したとしても、基本的に犯罪になりません。
まず、日本の刑法には『盗撮罪』はありません。また、軽犯罪法では『他人が通常衣服を着けないでいる場所をのぞき見る』行為を処罰していますが(同法1条23号)、電車の座席に対する撮影は該当しません。
なお、軽犯罪法では『公共の乗物で乗客に対し著しく粗野または乱暴な言動で迷惑をかける』行為を処罰しています(同法1条5号)。しかし、制止を振り切って顔を撮影したのであればともかく、ひそかに顔を撮影するのはこれに該当しないでしょう」。
●「迷惑防止条例」に違反しない?
盗撮は、各都道府県の迷惑防止条例違反になると聞いたことがあります。電車内で人の顔を盗撮する行為は、迷惑防止条例に違反しませんか。
「確かに、迷惑防止条例では一定の盗撮を犯罪としていますが、人の性的羞恥心を害するような行為であることが前提です。規制内容は都道府県で多少異なるものの、たとえば、東京都の『公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例』では、
(1)通常衣服の全部または一部を着けない状態でいる場所、または公共の場所、公共の乗物等において、
(2) 通常衣服に隠されている下着または身体を、
(3)撮影し、または撮影目的で写真機等を差し向け、もしくは設置する
行為が処罰されます(同条例5条1項2号、8条1項2号、同条2項1号)。
電車の座席にいる人の顔を盗撮しただけであれば、通常衣服に隠されている下着や身体を撮影したわけではないので、迷惑防止条例に違反しません。
また、迷惑防止条例では『公共の場所や公共の乗物での卑わいな言動』も処罰していることが多いです。
ズボンを履いた女性の背後から、お尻を中心として11回撮影した行為が、卑わいな言動に該当し、北海道の迷惑防止条例に違反するとされた事件もあります(最高裁判所平成20年11月10日判決、刑集62巻10号2853頁)。
しかし、質問のケースは、人に性的羞恥心を与えるものではないので、卑わいな言動にも該当しません」。

何か当たり前のことを言われているようだが、少しモヤモヤがとれる。女性を見るだけでも加害行為ではないか、と懸念する男性にとっては少し安心する内容だ。
だいたい人間同士が暮らすということには既に、素顔という形でのプライバシーをお互いに晒し合うことを前提としているのだ。さもなければイスラム世界のように女性はヒジャーブ hijab で顔を隠す必要が出てくるだろう。
しかしそれにしてもイスラム教の世界観は、女性が男性から性的に見られるということを前提としているかのようで、興味深い。コーランでは「貞節な女性たちに『目を伏せ、プライベートな部分を守り、(魅惑させないよう)飾らず』」と書かれているという。そして「ヒジャーブは女性が男性から性的な眼差しを向けられることを妨げ、男性が誘惑に負けて罪を犯すことを防ぐ役割がある」というのだ。つまりイスラム世界では女性の素顔を写真にとることはすでに「盗撮」ということになるが、その際に素顔をさらした上の女性も男性に劣情を起こさせたという意味で罪が問われるというところが男尊女卑の世界観を表していると言えるだろう。

2024年11月10日日曜日

解離における知覚体験 8

 ここらへんで執筆モードに入ることにする。次のような感じで始まるか。何しろ12月の締切りが近づいてきているからだ。

はじめに

解離症における知覚体験について論じるのが本稿のテーマである。解離症の臨床を通じて体験されるのは、患者は様々な異常知覚を訴えることが多いということである。解離症は一般的には、

「意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻および/または不連続」により特徴づけられるものとして定義される(DSM-5-TR)。そして知覚体験についてもその欠損や異常知覚が、その他の心的な機能との統合を失った形で見られる。そしてそれらは統合失調症由来のものや脳の器質的な異常により生じるものとの鑑別が必要とされることになる。特に注意が必要なのは統合失調症性の知覚異常や幻聴体験との異同であろう。

幻覚の定義としては「対応する感覚器官への客観的な入力 objective input がないにもかかわらず生じるあらゆる様式 modality の知覚的な体験」Walters, et al, 2012) である。

幻覚はしばしば深刻な精神病理との関連を疑わせるがlife time 有病率は5.2%とされる(McGrth, et al, 2015)。幻聴の機序を解明することは難しいが、その中でそれを解離の文脈でとらえる向きがある(Longden, et al. 2012) そこで解離性障害の症状としての知覚異常はどのように定義されているだろうか? DSM-5を紐解き、解離性の幻覚体験に相当する部分、すなわち「機能性神経症状症」の中の記載を見ると、「感覚症状には、皮膚感覚、視覚、又は聴覚の変化、減弱、又は欠如が含まれる」とあるだけである。ここは実にシンプルだ。というより「何でもあり」という印象を受ける。しかし診断を支持する関連特徴としては、「ストレス因が関係している場合があること」、「神経疾患によって説明されないこと」「診察の結果に一貫性がないこと」(315)などが挙げられている。すなわち解離性の幻覚は、神経疾患で説明されず、浮動性を有する傾向があるという以外には、あらゆる形を取り得ることが許されているのだ。従来は解離性の視覚症状として管状視野(トンネルビジョン)がよく記載されていたが、実際には様々な形を取り得ることを私も臨床で経験している。

このように考えると、解離性の幻覚体験は、解離性障害における知覚異常のごく一部に相当するものと考えることが出来る。感覚異常と言ってもそれが欠損していたり、変容していたり、する。そのどのあり方も存在し得るのである。 このような解離における知覚異常のあり方は、いわゆる解離の陽性症状と陰性症状という考え方に立ち戻る必要があろう。Steele, K, van der Hart, O, Nijenhuis, E (2009) 「構造的解離」ではp73で、陽性症状という用語を実際に用いている(野間、岡野)。ともかくも幻覚は解離性に特有の現象というわけではなく、解離性症状の特に陽性症状と言われるものがあらゆる形をとる中で起きて来るものということが出来る。そしてその意味では解離性幻覚は、解離症状の様々な症状の文脈の中で見え隠れするものということが出来る。 つまりはそれ単独で現れることはむしろ例外であるということだ。