2016年5月7日土曜日

嘘 2 ⑬

もうこの自己欺瞞の項目、終わりにしなくちゃね。結局いくら考えてもわからないや。でも少しまとめておこう。世の中には、「プチ嘘つき」(呼び方が変わった)がいる。普通の人だ。ちょっと嘘をついているだけ。その意識はある。それより深刻なのが自己欺瞞だ。自分に対して「嘘をついていない」と嘘をつくことで自分を欺く。その嘘のつき方は、嘘をついているという認識を放置しておいて、意識の外に沈んでいくのを見てみぬ振りする。そこがズルいと言えばズルい。特にそれにより人を利用する。そのくせそれで立場が上の人をいらだたせる恐れがあるとすれば、それを用いないのだ。それが一番ズルイところだ。ということはやはりある程度は自分がやっていることを意識している。
自己欺瞞を用いる人には、常に言い訳、ないしは建前のフレーズが準備されている。「あなたのためを思っているのだ。」みたいな。これを唱えると心地よいし、「でも本当は自分がキモチいい」という事実は、この建前が前面に立つことで、よりスムーズに意識から消えていく。しかし完全には消え去らないだろう。それが、このことに言及されたときなどの怒りに通じるのだ。そしてこの事情を「自己欺瞞とは、自分で自分を欺くことだ」と表現するのだ。
でも自分に嘘をつく、自分を欺く、とはどういうことか。他人に嘘をつくときには、嘘をついているという意識はある。自分に嘘をついているときは、言い訳で本音をさらに意識の奥(つまり無意識)に沈みこむに任せる、ということだろう。
ところで最後に、サルトルはどんなことを言っているのだろうか、ということになる。

2016年5月6日金曜日

嘘 2 ⑫

昨日の続きである。
いずれの場合も、その人に自分が嘘をついているという明確な自覚があるとしたら、自己欺瞞ではない。単なる嘘つき、ないしは操作的な人間ということになる。ただしこの種の嘘は、先に述べた「弱い嘘」として、程度の差こそあれ万人によってつかれていることは、すでに検討した通りである。問題はその嘘を彼らがあいまいな形でしか自覚していないことである。彼らは常に口実を用意している。その口実を心の中で唱えることで、その嘘についてあまり考えないようにしている。
もしこの状態が、「ある事実や可能性が意識の舞台の袖にあっても、見ないふりをする」という風に表現できるのなら、おそらくこれは精神分析でいうところの「抑制」が働いていることを意味する。そしてここには一種の罪悪感や後ろめたさが伴うはずだ。見ようとしていないものが一瞬視線に入った時に、それが生じることになる。するとこれを代償するように、相手に、弱い嘘をついた相手に接近し、機嫌を取ることになるだろう。①ならこちらから誘いかける。②なら子供に対してことさら愛情を注いでいるそぶりを見せる。田房永子さんの漫画(「母がしんどい」)ではまさにそうだった。③ならBに対して、飲みに連れて行く、「やはり君は頼れる部下だよ」などとお世辞を言う。④だったら母親は息子に、わざとらしく見合いの話を持ってくるかもしれない。
 どれも特徴的な気がする。自己欺瞞の人の典型は、このような代償行為を臆面もなく行うことだ。それは彼らがある意味では自分に嘘をついていることを心のどこかで認めていることの証拠になる(だから「自己欺瞞」と呼ばれるのだ。英語では self-deception)。彼らの代償行為は、それがバレそうになった時に一生懸命自分を、そして相手をだます手段である。こうすることで彼らは他者や自分との関係を維持することになるだろう。さもなければ誰も彼らに近付かなくなってしまうからだ。そう、自己欺瞞人間の周りでは、たいてい彼らに混乱させられ、辟易している人がいるはずなのだ。そのことくらいは自己欺瞞者にもわかっている。
でも、とここからは新たな考えがうまれた。(まだまだ下書き段階である。)この種の自己欺瞞は、私たちが例えば運動をしたり、ダイエットをしたり、と決心した人がくじけるとき、三日坊主の時と、どう違うのだろう?3日間続けたジョギングを4日目にサボる時、私たちは自分にどのような言い訳をするか。「自分はこのままメタボでいたら、多くのもの(健康、人からの評価、自尊心)を失ってしまう」という思考は、おそらくジョギングを始めた頃よりはインパクトを失っているのだろう。テレビで健康番組を見た当座はインパクトを受けても、次々と別の面白く興味深い番組を見ていることだし。あるいはより安楽を求める心が強くなり、「運動すべし!」という思考は容易に舞台裏に押しやられる存在になって行く。もうそのことは考えなくなるのである。
 このような形での「忘却」は、忘れよう、忘れようと意図的な努力を行うのとは違い、きわめて容易で、受け身的であることがわかる。前者の忘却は力で意識の外に押しやる運動。後者はむしろ力を抜くことで勝手に生じる。前者はほっておけば舞台にせり出してくる思考を無理やり舞台裏に押し込む作業。後者はほっておけば舞台裏に引っ込んでいく思考をそのままにしておくこと。フロイトの用語を使えば、前者は逆備給を持つ思考への働きかけであり、後者はそれを持たずに自然に前意識、または無意識に沈んで行き、そこにとどまろうとする思考が対象だ。後者については、それが意識という舞台に登場することで苦痛を呼び起こすという、きわめて快楽主義的な原則が働く。「C.エレガンス的」な心だ。そしてそれが舞台裏に押しやられることで罪悪感や恥辱などを伴う際にのみ、逆備給を獲得する。前者は水中に沈めた風船のように浮かび上がろうとするもの。後者は(最初に入っていたはずの)空気が抜けてしまい、風船そのものの重さもあり、浮かび上がってくる力を失った、しぼんだ風船、ともなぞられることができるだろう。
うーん、少しずつ分かってきたぞ。思考にはこの二種類があるのだ。C.エレガンス的な原則に従うのは、逆備給を受けていない、自然と忘れ去られる運命にある思考。これは意識から去ることが自然なのだ。もう一度まとめてみるぞ。部下に汚れ役を押し付ける上司。③の例だ。本当は自分がすべきものを、部下を鍛えるという口実に部下に押し付ける。恐らく彼はそのような卑怯な手を、自分より立場の強い相手には用いないはずだ。そんな例はいくらでも見たことがある。ということはそのような行為は意図的なのだ。「この人にはこの手が使えそうだ」と言って用いるのだろう。そうでないと誰からも相手にされなくなってしまう。相手によって態度を変える人間。自己欺瞞的な人間の典型だ。ということは「この部下をだましている」という自覚はある。しかしその意識は、都合よく意識から消えて行ってくれる。罪悪感とともに彼自身を苛むことはない。ほっておけば忘却される思考なのだ。 

2016年5月5日木曜日

嘘 2 ⑪

自己欺瞞の例④
まだまだ分からない。もう一つの例。
ある50代の母親が、20代後半の息子の引きこもり状態に悩んでいる。といっても彼は自宅に引きこもっているのではなく、自身のアパートから出られない状態だ。2年前にようやく生活保護を受けてアパートを借りるというところまで行った。母親は大学を出て会社勤務を数か月しただけで出社拒否になった息子の将来を誰よりも気にかけている。今は友達ともすっかり遠ざかり、寂しい思いをしつつゲーム三昧の息子。私や夫が死んだあとは、彼を世話する人はいるのだろうか?
 ところがある日、息子あての葉書が舞い込む。どうやら息子の高校時代の同級生のようだ。「○○君 (息子の名前) お久しぶり。この間高校の同窓会であなたの話になりました。急に懐かしくなりましたが、あいにく住所しかわかりません。まだ同じところに住んでいるかと思い、葉書を出します。もしよろしかったらメールででもお返事をいただけますか?」

母親はそこに書かれた女性の名前を何となく憶えている。まだ社交的だった高校時代の息子が、そのころ友達付き合いをしていたクラスメートの女性だ。一度写真を見せてもらったことがあるが、愛らしくて素敵な女性だと感じるとともに、強烈な不安と嫉妬を感じたのを覚えている。息子は特に深い関係ではないと聞いてほっとしたし、実際そうだったのだろう。だからその女性は電話番号も知らなかったのだ。でも自宅の住所だけは探り当てたらしい。
母親は少し考えた末に、その葉書を破り捨てる。「それは一人ぼっちの息子にとってはこの葉書はうれしいかも知れない。でも彼に一番大事なのは、まずは仕事を見つけて独り立ちをすること。異性に興味を持っている場合じゃないわ。」息子にはもちろんこの葉書のことは伝えないつもりだ。そしてつぶやく。「こうするのも彼のためを思ってだわ。」
この場合母親の自己欺瞞は、息子にこの葉書を届けたくない真の理由が、「息子の独立を一刻も早く願う」ことであると信じ、「息子をこの若い女性に奪われたくないから」という隠された理由を押し殺していたとしよう。これも自己欺瞞だ。
なんだかこれ以上例を挙げても同じ気がする。これらの例に共通しているのは何か?心の一部は、自分が嘘をついていることを知っている。①では本当は相手に会いたくないのに、体調のせいにしていること。②では本当は自分が娘にピアノを習わせたかったのに、娘がそれを積極的に臨んだ、と思い込んでいること。③ではAさんがBさんを鍛えるため、といいながら本当は自分が社長と対決することを回避していること。④は母親が息子に仕事探しに専念してほしいから、という口実で、実は自分の嫉妬心から、娘と女性との付き合いの芽を摘んでしまったこと。

2016年5月4日水曜日

嘘 2 ⑩

自己欺瞞の例 ⑩
だめだ。まだ母親の自己欺瞞のエッセンスを抽出できない。そこで次の例に移る。ある会社の部署で、ワンマン社長の肝いりで企画を立ち上げることになった。その部署ではリーダー格のAさんが、まだ年若い部下のBさんに言う。「君がこの企画のプロジェクトの実質的なリーダーになってやってごらん。君は将来有望だし、これをいい機会にして、リーダーシップを発揮してみてはどうだい?困ったことがあったら僕が助け舟を出すから、大船に乗ったつもりでね。」Bはそう言われてまんざら悪い気はしない。Aさんのことは前から頼りがいのある上司だと思っていた。そこで早速ほかの部下を集めてプロジェクトを立ち上げる。
 しかしそれがある程度進んだところで、一つ問題が生じた。社長の指令で始まったこの企画がある程度進行した時点で、途中経過を社長に伝えたところ、思わぬダメ出しが出た。その進行中の企画の一部が、社長の意に沿わないという。しかしそれは最初の社長の指令(といっても簡単なものだったが)から読み取れる方針に従ったのであり、むしろ社長に彼の伝えてくる方針の矛盾点を問いただす性質のものだ、ということになった。そこでBさんはAさんに相談する。「Aさん、この件について、社長に問い合わせていただけませんか?プロジェクトはある程度進行しています。社長の真意を確かめたいのですが、私には畏れ多いのです。直接連絡をできる立場にありません。」ところがそれを聞いたAはこう言い放ったのである。
「B君。あくまでも君のプロジェクトだよ。キミ自身が社長に連絡をしたまえ。」B君ははしごを外された感じがする。「いざとなったら助け舟を出してくれる、と言ったのに。」そのうちこんなうわさが聞こえてくる。「Aさんはもともと社長が苦手で、だからBさんを鍛える、などと言いながら、直接社長と対決することを避けたらしい。いかにもAさんのやりそうなことだ…」そしてこれが事態の一側面を確かに表していると仮定しよう。

ここでのAさんの自己欺瞞は、自分はBさんを鍛えるということを口実に、社長との直接対決を避けていて、そのこと自体を「見てみない」ということにある。

2016年5月3日火曜日

嘘 2 ⑨

自己欺瞞の例 ②

母親の例をもう一度出そう。以下の例は「母がしんどい」(田房永子)に出てきた例をもとにしている。
ある母親が娘にピアノを習わせようと思う。近所のママ友が、娘にピアノを習わせ始めたと聞いて、「自分の娘もぜひ!」と思っているうちに、いつの間にか「娘は当然ピアノを習いたいはずだ」と思い始めている。早速近くのヤ●ハピアノ教室に電話をして、段取りをつけてしまう。そして娘に宣言する。「来週の月曜日、ピアノ教室に行くわよ!」最初娘は、例によって急に決められてしまった話に驚く。「習うのは私なのに。ママっていつも勝手に決めるんだから。この間のバレーのときもそうだったし。」でもまんざらでもない気もする。面白そうだし、自分も友達の話を聞いて、自分もやってみたいと思っていたし。そこで取りあえずは、その近所の●マハの出店に出かけてみる。そして最初は出来そうなので契約し、3回ほど通ってみるのだが、もともとコツコツ練習するタイプではない。取り立てて音楽の才能もないから、そのうち飽きて、行き渋るようになる。すると母親は言うのである。「あんたが習いたいって言ったんじゃない!高いお金も払ったのに、なんてわがままなの!」娘は、何かがおかしいと思うのだが、反論できない。
これも自己欺瞞の例だ。そしてこの種の自己欺瞞は親子でしばしば発揮され、時には娘に深刻な病理を生み出す可能性がある。
 さて問題は「娘にピアノを習わせたい」がいつの間にか、「娘が初めからピアノを習いたがったのだ」になるプロセスである。
ちなみにこの例は、母親が自己欺瞞的であり、娘はその犠牲者である、という風には単純に割り切れないことも付け加えておこう。娘はどこかの時点で「お母さん、私、ピアノをやりたい」と意思表示をしている可能性がある。母親は最初は自分が誘ったという自覚があっても、この時点で娘の自主的な意思表示を受けた、と考えるかもしれない。そして母親に「あなたが最終的に自分で決めたんじゃないの?」といわれた娘が次のように言うとしたらどうだろう?「私はお母さんに『やりたい』言わせられたの。お母さんを傷つけたくないと思ったから、そう言ってあげたの。お母さんはいつも私の本当の気持ちを無視して、私にやらせたいことをそれとなく知らせてくるの。私がいや、と言えない性格なことを知っていて、いつの間にか私にやらせたいことを、私が自分からやりたいと言うように仕向けるの。なんてずるい人なの?」
ここを読んで「ある、ある」と思う人が、10人に一人くらいはいらっしゃらないだろうか?そう、母親が自己欺瞞であると同時に、娘の方にも同様の傾向があることが少なくないのだ。そして母-成人娘間のミスコミュニケーションは大体そのような問題を、多かれ少なかれはらんでいるものなのだ。(父親―成人息子の場合は? そもそも会話をしない!!) ただしそこでやはり最初の段階で強い威力を発揮するのは、もちろん母親の方なのである。
ここでの母親の自己欺瞞は、自分がピアノを娘に習わせたかったが、それを「娘が本来そうしたかった」にすり替え、そのことを見てみないという傾向を指すことになる。


2016年5月2日月曜日

嘘 2 ⑧

自己欺瞞の何が問題なのか?

さて自己欺瞞の何が問題なのかを、ここで改めて述べよう。自己欺瞞はそれが第一に周囲に害毒を及ぼすのだ。自己欺瞞は多くの場合、自分を利するために用いられる。しかもその自覚が薄いから始末に悪い。「人のため」にやっていると本人が思い込んでいるから困るのだ。「お母さんは、あなたのためを思って言っているのよ。」的な。そして言われた方も一瞬そのように思う。「そうか、私のためを思って言ってくれているのだ。それに反発する私がいけないのだ・・・・」しかしフト、「本当だろうか?」という気持ちが起きる。直観的にそこに自己欺瞞の匂いを感じ取るのであろう。しかしそれを捉えて攻撃することが出来ない。それが本当は利己的な行為であるという決定的な証拠などどこにもない。だからこそ自己欺瞞は生じ続け、周囲もその犠牲になる。しかしさすがにそのような人は次第に周囲から遠ざけられる。Cエレガンス的な心が作動して、「この人といても利用されるばかりだ。アブナイアブナイ」となっていくのである。
とここまで書いて、あとは実例を挙げていこう。

自己欺瞞の例 ①

あなたが友人からメールを貰う。「今少し困っていることがあるんだけれど、時間を取ってくれない?直接会えない?」あなたはこう返す。「ごめんね、今日少し頭痛がして、しんどいから、無理。」本当はあの人には会いたくない。それにちょっとだけ頭が重いのも確かだ。でも本当に具合が悪いから会えないのかと言えば、分からない・・・・。でも具合が悪いという正当な理由で会えないということを自分に納得させる。その友人は、あなたの断りの返事のメールに、「いつもの彼女らしい返し方だな」、と思うかもしれない。いざとなった時に助けてくれない人だ、という判断を下すかもしれないのだ。

自己欺瞞が発生しやすいのはこういう時で、「自分はAである。だからBである。」という理由づけのうち、Aが主観的であいまいな場合である。忙しい、具合が悪い、時間がない、など皆そうである。魚の例で言えば、4尾が6尾になるのは目に見える変化だ。デジタル的だからだ。でも「さっきちらっと見た水槽に何尾の魚がいましたか?」となると、記憶はたちまち「45尾?、6尾?」などとアナログになってしまう。釣りに行ったのが一年前だった場合にその成果を申告する際も同じことが起きる。4尾のような気がするが、6尾である可能性もないわけではない・・・・。自分がことさら話を持っているのかどうかということが、自分にも分らない。すると自分が話を盛っているか否か、が不明になり、「6尾釣った!」という証言はより罪悪感を伴わなくなる。

2016年5月1日日曜日

嘘 2 ⑦

もう少し説明しよう。右脳は快不快に従った行動、Cエレガンス的な行動(いきなり出てきたな!今後使わせていただく。快不快原則に従う脳、という意味である。ちょうど線虫Cエレガンスがそうであるように)をつかさどる。私が前書(「脳科学と心の臨床」岩崎学術出版社)で論じたように、右脳は「気まぐれなイノベーター」でその時その時に欲した方向に行く。左脳は「論理的に疑い、理由付けをする」脳である。おそらく両方の傾向は常に私たちの心の中で綱引きをしている。ちょうどステレオサウンドを聞くように、脳では両方の傾向が妥協点を見出すのである。もちろん実際に人間の心がそのような動きを見せているかはわからない。しかし分離脳の実験はそのような仮説を抱かせるのである。
このことを嘘や自己欺瞞の問題に結びつけよう。嘘は自分が虚偽を真実に見せかけつつ、そのことを知っている。右脳に発したCエレガンス的な意図を左脳が捻じ曲げたということを、脳全体としては知っているのだ。そして知っているからこそ、嘘をつき続けることが出来る。少なくとも「弱い嘘」については、脳が左右に分かれてて情報を発し、その後に統合するという仕組み上、ほぼ自然に起きる現象といえるだろう。
そこでひとつの問いをここに導入しよう。もし、心が嘘をついているということについて曖昧であったらどうなるのか?少し比喩的な言い方をお許しいただきたいのだが、その人が自分に嘘をついていて、自分は嘘をついていない、とただ言い聞かせているならばどういうことが起きるのだろうか?そう、これが自己欺瞞の問題である。自己欺瞞、という言葉からわかるとおり、自分で自分を欺いている状態なのである。
自分で自分に嘘をつく、ということはどういう状態だろうか?「軽い嘘」のことを思い出そう。魚を釣りに赴き、実際は4尾釣ったのに、6尾だという、あれだ。「軽い」なりに嘘だから、本人は「本当は4尾」だということを知っている。だから「あなたと一緒に釣りをした人に聞いたが、あなたは4尾しか釣れなかったと言ってましたよ」などといわれると、すぐにシドロモドロニなり、嘘がバレてしまう。その危険を十分に自覚しているのだ。
 ところがここに、4尾を釣ったのに6尾釣ったということを半ば信じてしまう人が登場する。彼は不思議なことに、嘘をついたという自覚がない。彼は頭の中で4尾をさっと6尾に置き換えて、平気なのである。彼は自分自身に嘘をついてしまう。もし証言者がいて4尾しか釣れなかったのを見た、と言われると、彼はきっとこう言うのである。「その人が嘘をついているのだ。」あるいは証拠写真を見せられたら、こういうのである。「その証拠写真は細工がしてある。コラージュだ。」

実は自己欺瞞の話のつかみとして、分離脳の話を出したのにはわけがある。分離脳の状態では、通常は左脳は本気で「飲み物をとりにいこうとしている」と信じていることが知られている。分離脳は自己欺瞞脳でもあるのだ。ということは、自己欺瞞的な人とは、自分の右脳部分、Cエレガンス的な、快不快原則に従う脳の声を、あたかもそこから切り離された部分からの声のように、無視するのである。