2010年10月31日日曜日

前原外相が中国から「トラブルメーカー」と名指しで非難されたそうだ。しかし中国にしても北朝鮮にしても、国としての対応が、あたかも人格を持った人のように感じるのはどうしてだろうか?基本的にはだれか一人のリーダーのパーソナルな反応がそのままおうむ返しに伝えられるのだろうか?かねがね不思議である。うちの神さんなど、中国側からの報道、例えば「日中首脳会談が中止になったのは、すべて日本側の責任である」という報道を聞き、あたかも中国、という人に対してそうするのと同様に腹を立てている。私はその分あまり腹を立てなくてもすんでいる。
それにしても国が成熟するプロセスというのは面白い。日本人は中国で日の丸の旗が焼かれても、騒ぐ人などいない。醒めている。これは日本という国やその国民がそれだけ成熟しているから、オトナだから、と言えないこともない。しかし同時に日本という国のシステムがこれでもうまく働いていて、人々が基本的には幸せに暮らしているから、ということも考えられる。衣食が足ると、人は社会に無関心になっていくのだろう。自分個人の生活をより高めることにより関心が向くからだ。でもこれは進歩を意味するのだろうか?とにかく日本は過ごしやすい。でもそのことがどこか不安にさせるのである。

2010年10月30日土曜日

快楽の条件 5-1. 人から与え続けられる恩恵は時とともに快楽的要素のほとんどを失う

大型の台風14号が今関東地方を直撃しつつある。10月の台風が列島を襲うのは珍しいそうだ。こういう日は私の妄想が膨らむ。「決して雨が降らない、そして決して寒すぎることのないところで暮らしたい。」そしてこれは案外簡単に「引きこもり願望」へと繋がる気がする。

さて今日のテーマ。これは快楽の条件 5. 「自分が持っているものは、もはや快楽的ではない」の補遺のようなものだ。
これが典型的な形で見られるのは、やはりなんといっても親子の関係だろう。親は成人した子に、自立するまでは生活費を援助するのが普通だ。子はそれを当然のものとし、特に恩に感じることもない(ように見うけられる)ことがしばしばである。不幸なのは、恩を与えている側がそれを自分の当然なすべきことと割り切っているうちはいいが、時には「どうして感謝されるべきことをしていて、当たり前と思われるのだろう? 電話一つよこさないとはケシカラン!」となる場合だ。しかし5-1で、人はそもそも快楽を体験する上で、そのような性質を持つ、という提言を行っている通り、それが人間の心に備わった性質である限り、これは致し方ないことなのだ。子どもをけしからんと怒っている親だって、実は自分の親に対して多かれすくなかれ似たような忘恩行為をしているものである。(ヒエー、私のことだ!)
もちろん5-1は親子関係に限らない。配偶者の一方が他方に与える恩恵も、国家が国民に与える恩恵も同じである。ただ親子関係が一番例としてわかりやすいのだ。
この5-1の恐ろしい点は、恩恵を与える側は、感謝されないだけでなく、その恩恵を与えることを中止した際には明白な怒りや恨みを向けられるということである。
このような現象が起きる原因は、快楽の条件5に示した通りだ。自分がすでに得たものは快楽ではない。快楽とは、自分の持っているものの、時間微分値がプラスの場合である。得たときにしか心地よくない。
さて恩恵を与えていた側が恨みを買うといった不幸が生じないためには、彼が感謝を一切期待しないという覚悟をするしかない。あるいはその恩恵を与える行為を一切止めてしまうことだ。マア、当たり前といわれればそれまでだが。
大体援助を継続している側は、たいてい一度は援助を止めてしまいたいと考えるものだ。しかしそれはなかなか出来ないことである。それはそうすることへの後ろめたさ、あるいは恩恵を受ける側からの恨みの大きさへの恐れからである。それほど援助される側の「当たり前感」は大きいのだ。ただしそれを思い切って行ったとしても、それは本人が思ったほどには、極悪非道のことには思えない。そう、援助する側が勝手にうらまれることを恐れているに過ぎない。
ただし親子の関係には、もう一つ深層があると思う。それは出生をめぐる親の後ろめたさ、あるいは負債の感覚だ。生まれたばかりの子どもを胸に抱いた親は、その子が独り立ちするまで面倒を見ることは当然だと思うだろう。それは一方的に(まさにそうである)断りもなく(これもその通り)この世に送り出した親としては当然のことと思うだろう。
親は身勝手な行為の結果として子を世に送る。その時点で子供にまったく罪はない。すると子に降りかかるすべての不幸は、親の責任ということになる。これは考え出すと実に恐ろしいことだ。そうやって人類は生命を受け継いできたのだ、実は自分自身も親の勝手な行為の結果だ、ということを忘れても、この感覚を持ち続ける親は多いように思う。特に日本の親についてそれはいえるのだ。

2010年10月29日金曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟 (3)

明日明後日と東京が台風に見舞われると思うと、憂鬱である。
今日の留学記の内容は、薬物療法に興味のない人にはあまり意味が無いかも知れない。



ライネック病院の精神科病棟には患者の行なう活動と言えるものは何もなかった。患者は月曜と木曜の教授回診に応じ、その他に担当の医師の面談を受けるだけである。病棟は特別の場合を除いて施錠しないが、患者はすべての外出に医師の許可がいる。すなわち専門の用紙に何時から何時までの外出を許可する、という証明がなされていない限り外出は許されない。というより本来はその許可以外の外出先で起きたことに対しては保険の対象外になる、という意味なのだが。
シャルコー病棟では入院して数日はこの許可が下りないのが通常であった。パリの精神科は、サンタンヌを除けば自由入院の形をとっているが、それでもこの様な形での実質的な行動制限が存在することを私は始めて知った。実際私がライネックに通い始めて数日は、入院患者の一人が許可無しに出て行こうとする為に常に病棟は施錠され、またその隙をみて飛び出そうとしたその患者を数人で押える、という場面まであった。しかしこれらの手続き上の相違を除いたら、後は病棟での活動は日本で体験した大学の精神科病棟のあるものとさほど違いがあるわけではない。その運営に治療共同体的な発想は全くといっていい程感じられないが、それとて日本でも例外という訳ではない。狭い病院の一角に作られた病棟ということもあり、何をするにも活動のスペースがないのが大きな原因という気がする。しかしその狭さが私自身にはむしろ心地好かった。何しろ大きな声を出さなくてもそこにいる人皆に考えが伝えられるのは有り難かった。
病棟の診療に関しては、教授(資格者)のクオンタン・ドゥブレ Quantin Debray 医師が当たる。彼はフランス小児精神医学界の大御所のドゥブレ教授の子息で、まだ40代前半でありながら貫禄は十分である。この教授の診療や処方をまのあたりにすることで、私はフランスの大学レベルでの精神医療の実際を肌で感じ取ることが出来、とても参考になった。
恐らくライネックの、あるいはドゥブレ教授の診療方針にもよるのであろうが、病棟での治療は専ら薬物療法に重きが置かれている、という印象がある。一般にフランスの薬物療法に関しては、元々向精神薬を産み出した国ということもあってか、日本では使われない物が多く試みられていた。例えば抗欝剤もトフラニール、アナフラニール、ルジオミール、アチミール(mianserine)、ラロキシール(amitriptyline)、といった、日本で同名ないし別名でよく使われるものの他に、フロキシフラール(fluvoxamine, SSRI),ウィヴァロン(vi1oxazine、抗コリン作用が少なく、老人にも多く用いられる)、シュルベクトール(amineptine、脱抑制効果が強く、アンフェタミン様の依存が最近問題になって来ている)、プロチアデン(dosulepine)、プラグマレール(trazodone)、キノプリール(quinopramine)、クレジアール(medifexamine)、ユモリール(toloxatone、新しい、副作用の少ないとされるM.A.0.I)といった日本では耳にしないものが頻繁に用いられる。またテラレーヌ(alimemazine),フェネルガン(promethazine)等のフェノチアンジン系のnon-neuroleptics やメレリル等の使用頻度も高い。その他主要なメジャートランキライザーやリチウム、テグレトール,ドグマチール等は名前もそのままで、使用の仕方はあまり日本と変わりがない様である。少し変わり種としては、depamide という抗てんかん薬のデパケンの親戚のような薬が、その効能ははっきりと証明されてはいないと言われながらも、感情調整薬として時々使われていた。同じ調子でマイナー・トランキライザーも、何とかセパムというのが沢山開発されていた。
これらの豊富な種類の薬を議論好きなフランス人の医者達はこの症状にはこれが良い、いやあれだ、といいつつ使用するのである。ドゥプレ教授は特に薬物療法のみを専門としている訳ではないが、やはりこの薬の匙加減にはことさら御執心のようであった。ライネックの病棟では私はまた注意深くその適応を検討された上での全身麻酔下での電気ショック療法(electronarcose) が示す著効例を何例か体験することも出来た。
フランスでの精神科の薬物療法に関して、私が体験した範囲で日本との相違が目立つのは、バルビツール系の薬に対する考え方である。日本で患者の眠剤として精神科の病棟や外来でしばしば処方されているアモバルビタール等の薬は、ネッケル病院で私の知っている範囲ではどの患者にも処方されていなかった。前にも書いたがフランス人のマイナー・トランキライザーやバルビツール系の薬物の習慣性の現われ方やそれに対する警戒は私達の想像以上である。マイナー・トランキライザーに抵抗する不眠にはテラレーヌ(alimemazine, phenothiazine 系)がよく用いられる。また日本で興奮患者に時々用いられるアモバルビタールの静注についてもこちらでは非常に消極的で、むしろドロレプタン(droperidol, butyrophenone 系)やエクアニール(meprobamate)の筋注が用いられる、という。私はこれまで日本ではこれらの場合のバルビツール系の薬の使用をやむを得ないものと思って使っていただけに、これからは眠剤の出し方ひとつにしても考え方を少し改める必要があると考えた。

2010年10月28日木曜日

チビの後ずさり (2)

チビの後ずさり(1)を以前書いたのは、・・・・・・忘れた。いつかそんなテーマで書いたような気がするので、それを(1)とする。実は13歳のチビは今年の4月頃からおもらしを始め、苦労していた。水をカプ、カプ、カプ、と飲みながら、後ろからジャー、と出したりする。昼寝をしていたチビが立ち去ったあとがやたらと濡れていたりする。まさか・・・ということになった。そこでチビはすっかりおむつのお世話になっていた。ちなみに皆さんは、犬用のおむつと人用のそれの違いをご存知か?真ん中にしっぽ用の穴が開いているのである。(ということは、実はサイズさえ合えば、犬用のおむつは人用のおむつからつくることが出来る。逆は無理だが。)ということでチビは結局おむつのお世話になったのだが、いきなりなので不思議がっていた。世田谷の獣医にかかり、腎臓の異常値を指摘されたり(結局元に戻った)、尿路感染を疑われたりしたが結局分からず。すこし回復して、おむつが取れだしたのが8月。ところがふとしたことから9月にまた3週間失禁が続き・・・・なんとまた良くなっている。あのチビの情けないオムツ姿(神さんはそれを「かわいい」という)を見なくなっているが、最近神さんに言わせれば、原因がわかった、というのである。私も認めるしかない。というのもチビは、生まれてからずっとそばにいた息子が関西に行ってしまったことに反応していたらしいのだ。そしてそれを忘れた頃に息子は初めての大学の夏休みということで家に戻ってきたのだが、また行ってしまったのが9月である。タイミングとしてはあっている。何しろ我が一家の帰国する際の2004年に、一時的に私と「二人」で気まずい3ヶ月の生活をしていた時期があったが(神さんと息子が先に帰国して、私は一年遅れた。チビは彼らが家を見つけて安定する間、アメリカで私が勝っていて、それから航空便(特殊な)で日本に送ったのだ。)チビは、激やせしたくらいだ。私との生活に終始怯え、3ヶ月が終わる頃はアバラが目立つようになり、頬は痩せこけ、なんと顔色まで青白くなったのだ。気のせいか?
ということでたくさん買い置きしているおむつは当分は無駄になりそうである。それにしても犬の「身体化症状」は面白いが、実はそれで思い出すのは、1997年から2年余りの、つまり生まれてから2年ほどの間のチビの様子である。なんと彼女は「嬉チビり」(ウレチビリ)の常習犯だったのだ。つまり嬉しかったり驚いたりするとそのままダーッと後ろから・・・・。そう、彼女は膀胱括約筋がもともとゆるいのだった。それが老化もあり不安や気がかりな状態に反応して機能不全になるということらしい。ということはこれから老化が進むと結局、チビはおチビリを始めるということなのだろう。一生おもらしに苦しめられるのだ。そういえばチビのこの名前も、それを運命付けていたのか?

2010年10月27日水曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(2)

初めて寒さを感じた朝であった。まだあのうだるような暑さがすぐに思い出されるから、それよりはまし、という気になる。
そろそろ終盤の留学記。結構健闘しているのにわれながら感心する。やはり「学問でもなく、観光でもなく」である。


ライネック病院はネッケル病院から歩いて10分ほどの、パリ第7区にあるやや小さい規模の総合病院である。時代がかった病棟の外見とは裏腹にその内部は明るく比較的清潔であつた。精神科の病棟(シャルコー病棟)は11床と規模が小さかった。いつも新しい環境に入って行くのに時間がかかる私は、それでもネッケルのときよりはかなり早くそこを居心地の良いものにすることが出来た。病棟の規模が小さく、スタッフが身近に居て、しかも私にも出来るような簡単な仕事がいつでもある、という、言わば私自身の存在意義を感じ取る事が出来る環境は私が願ってもないものであった。病棟のメンバーも気さくな人々ばかりで、私はパリジャンについてのイメージが一新する思いがした。私はそこで、言葉に依然不自由しつつも一応は精神科医として扱われることになった。フランスの常で、他国ですでに医師になっている場合はフランスでもその資格があるとの前提がある。但しあくまでもそこでの医長の責任のもとで活動する事になるのであるが。そこで私も右往左往しながらも突然医師としての振舞いを期待され、余儀なくされる、というちょっと奇妙な存在となった。私はもうバリを去る時期がわずか3ヶ月しかないこともあり、思い切っていろいろチャレンジして見ようと思っているのであるが、病棟にいると冒険をするどころか見当違いのことをせずにそこにいるだけでも精一杯である。毎日が冷や汗の連続であるが、しかしスタッフ達は私のその様な様子を故意に看過するようなところがある。
その様な環境で困るのは、例えば看護室の電話が鳴り、その時私が一番そばにいれば、それを受けなくてはならないことである。日本にいてさえ人前で電話を取るのが苦手な私がそれを皆の見ている前でフランス語でやらなくてはならない。いざとなれば内容が分からなければ他のスタッフと代わることが出来るが、彼等は私の苦労を知りつつも受話器を先に取ってくれはしない。それでいて私が仕方なく相手と話し出すと、ニヤニヤしながら私のあわてふためいた応対ぶりを聞いていたりするのである。
更にもっと困るのは、他科からの精神科のコンサルテーションの依頼がよく有り、それを時には一人で出掛けなくてはならないことである。その往診を必要としている入院患者と差し向かいで話す分にはさして問題はない。それよりもそこの何人かの医師や看護婦の集まっているところに、精神科の専門家と称して行き、東洋人というだけで注目されてしまう上にそこで何等かの説明をして彼等を納得させなくてはならないことである。これも私の対人緊張をいたく刺激することこのうえない。始めは何とか一人で行くような状況を避け、アンテルヌのリシャールの後にくっついて行っていた私も、早晩一人で行く羽目になり、半ばやけになって出掛けて行く。全く「恐怖突入」の最たるものである。
私は病棟にいることで、周囲が私に任せてくれる仕事の範囲から類推する形で、外国人医師が一般に任され得る診療内容を知ることが出来た。フランスの医療制度について詳しく調べたわけではないが、私がパリで体験した限り、自国のライセンスを持つ外国人の医師は、診療のかなりのレヴェルにまでタッチ出来、また報酬さえ得ることも出来る。そのレベルは大体フランスのアンテルヌと同等、と言うことが出来る。パリ大学医学部に登録した外国人医師の多くは、二年目からF.F.I.という制度によりアンテルヌの仕事を代行するのが通常である。事実私と同時に研修を始めたファティマやクリスティナは既にパリ郊外の精神病院で5000フラン程度の報酬を得ながら勤務を開始していた。私も報酬はないものの病棟に居る限りは、勝手が分からないながらも医師としての振舞いを余儀なくされることは述べた。
例えば見舞いに来た患者の家族が、本人の吐き気の訴えを伝えに看護室に来ると、他に医師がいなければ私が対応しなければならない。さもなければ、どうしておまえはそこにいるのだ、ということになってしまう。私がとっさに適当な薬を思い付かないと、患者と家族で勝手に「おまえ、このあいだはフォスファルゲルが良く効いたじゃないか。先生、どうでしょう?」私はこのフランス人にとってはなじみの制酸剤を初めて聞くので、とりあえずは手帳に書き留めるのにやっとである。すると彼等は私の様子をみて、「フォスファルゲルをご存知ないのですか?」「おまえ、失礼なことを言うんじゃないよ。この人は医者だよ」などという会話を始める。断わるまでもなく、フランスではこのような状況で私に残された手だては一つしかない。すなわち絶対にその薬について分かり切っているという態度を保ちつつ、間違いを犯す前に何とかその状況を切り抜けることである。私は「そうですな。うんうん。それがここの病棟の常備薬にあるか見て来ましょう」などと言って看護控え室に取って返し、ヴィダール事典(フランスでは各診察室に一冊は備えている薬の事典)で調べ、看護婦のカトリーヌに尋ねる。そしてその薬の日本での相当物などを想い浮かべ、有る程度落ち着き、患者に持って行くと同時に、患者が同時に欲しい薬の候補として挙げていたプランペロン(これは要するに日本でもなじみの「プリンペラン」のフランス語読みだから私も知っている)との機序の違いなどを聞かれないうちから述べて彼等の私に対する疑いを少しでも軽減し、私自身もフラストレーションから少しは解消される必要があるのである。
こういう体験は私が最も苦手なものだが、かといって他に旨く切り抜ける方法も見当たらない。しかし余りこういうことが毎日重なると、一体こんな事を続けていると自分はどうなって仕舞うのだろう、などというへんな興味が沸いてくる。それにしても恐らくこれからは私は患者の吐き気の訴えに関して少しは巧く切り抜けることが出来るであろうが、この様な体験を一体何百回繰り返せば私はここに適応して適切な振舞いが出来るようになるのであろう?こう考えるとあと3ヶ月足らずとなった私のフランス滞在、ということも気になる。日常的に出会う目新しい事柄をいちいち手帳に記入するのも、これから先の私の3箇月を支えるだけ、と考えると余り意味が無い様な気がしてくる。すぐにパリを離れて仕舞うのであるから、病院にいること自体傍迷惑なのかも知れないという気もする。しかし後3箇月だと思うから「旅の恥はかき捨て」とばかりに、もう少し思うままに振舞って見たい、とも思うのである。

2010年10月26日火曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(1)

昨日は神さんの●●回目の誕生日であった。その時私の昔のフランス留学の話になった。彼女はその一部に参加していたのである。(それが今回の留学記第七話(1)だが、読み返してみると、そんなこと一言も触れていない。)そして改めて彼女が理解できなかったのがその留学の動機だった。業績のため、でもない。観光、でもない。何それ?というわけである。つくづく人間は(私は?)理由の明確でない動機にしたがって行動するものである。それにしてもどう考えてみても時間や努力の無駄遣いだったこの一年・・・・。それでは後悔するかといえばそんなことはない。後悔したら、それこそもったいない。何らかの形で自分の一部になっていると思うしかないのである。

研修先の病院を代わる機会を利用して、私はちょっと長いヴァカンスをとることにした。考えてみれば去年の秋に渡仏して以来、パリに腰を据えたままで、郊外はおろかパリ市内の見物さえ満足にしていない。日曜はポンピドゥーセンターの図書館に行くが、それ以外は来る日も来る日もネッケル病院に通っていた。私にしてみれば余り病院にとって役に立たないのに、その上休み勝ちだったら申し訳ない、という気持ちがある。しかしヨーロッパの中心にいながら周辺の国に足を向けないのも如何にも惜しい気がする。「ギリシャまでバス旅行1000フラン(約2万5000円に相当)」などという広告を見ると、改めてパリにいることの利点を感じさせられていた。私はこの際かねてから考えていたドイツ旅行に出てみることにした。
モンパルナスの駅で、ストラスブール経由の、ミュンヘンまでの往復の切符を座席指定も含めて買ってしまい、私は5月の始めに手軽な鞄ひとつの旅に出た。パリを離れるとすぐにそこから限り無く広がっている、という感じのフランスの田園風景を数時間楽しみ、フランスとドイツの国境にあるストラスブールに着く。長い歴史の中で、フランス領になったりドイツ領になったりしたところだ、と聞いている。そこには一緒に留学した給費生のH夫妻が住んでいるので御邪魔することにしていたのである。
H夫妻は私が考えていたよりも遥かにフランスでの生活に苦しんでいた。H氏は時々大学の生化学の研究所に通う他は、専ら家で身重の奥さんと時間を過ごしているとのことだった。二人ともことある度に日本は良かった、一刻も早く帰りたいと言い、また他方でフランスへの痛烈な批判を辞さなかった。H夫妻は7ケ前にフランス生活の開始時にパリを訪れ、私はそのとき知り合ったのだが、その時の彼らの夢を見ているような表情を思い出していた。人が思うほどフランス留学は華やかではない。
翌日からドイツのミュンヘンでの数日間は、私のヨーロッパ滞在の中でも特に楽しい日々となった。ミュンヘン中央駅に降りた途端にそこにはパリと違った清潔さと秩序が感じられた。ホテルでも売店でも、そして親しげに話し掛けてくる人々もパリジャンの冷たさとは非常に異なった印象を受けた。このことはパリに滞在中の、ドイツに旅行した経験のある人々から環繁に耳にしていたことであるが、それを現実に体験して私は少なからず驚いた。勿論私がドイツ人にとって特別の意味を持つ日本人である、ということはある。彼等もまた特定の民族、例えばトルコ系の人々に対して少なからず人種差別の傾向を持つことも指摘される。それに町の印象にしても、ミュンヘン自体がどちらかといえば田舎の小都市であり、人口も少なく、人々があくせくすることがない、ということも考え合わせなくてはならない。しかしそれでもやはり彼等の人との接触の仕方にはパリ人にない暖かさがあった。わたしはパリにではなくミュンヘンに滞在することになっていたら、私が毎日味わうフラストレーションの多くは解消されただろうか、と考えた。
私はいつもの出不精を返上してガイドを片手にノイエ、アルテピナコテーク(新、旧美術館)、オリンピツク塔、ドイツ博物館、マクシミリアン通り等を駆け回り、名残り惜しい気持ちで夜行でパリに戻った。(続く)

2010年10月25日月曜日

フランス留学記(1987年)第六話 見通しはにわかに明るくなった(後)

留学記、もう少し積み残しがある。

4月の終わりに、私の留学生活の中では比較的大きな変化があった。幸か不幸か4月いつばいで私はネッケル病院の外来を離れ、その近くにあるライネック病院の精神科病棟に行くことになったのである。同病院の精神科はネッケルとは反対に病棟のみで外来がなく、ネッケルの外来とは非常に近い関係にあり、教授(資格者)のドゥブレ医師やサイコロジスト達は同病院と兼任であった。ネッケルを去るといっても週3回は午後に通つてフーション医師の診察に立ちあうつもりであるが、デイホスビタルの患者の担当は他の医師に代わることになる。
私はネッケル病院からライネック病院に移ることを指示されたとき、余り気が向かなかった。それは結局ネッケルで自分が満足の行く形で活動することが出来なかったことに対するこだわりが大きかったからである。短期間の留学生、という身分で一体何をこだわっているのかと自分でも思うが、もう半ば意地のようなもので、とにかく病院で夕方まで過ごすことのみを考え、フランスの精神医学一般についてあちこち見学するなどして広く見聞を広める、などということはあまり望まなくなっていた。しかし他方では少なくともフランスの精神科の病棟の様子を少しは知っておきたいとも思っていたので、却ってこのライネックへの研修場所の変更は歓迎すべきことであった。
ネッケルを後にするに当たって、この7箇月の間に自分はどの様な形でここにいたのであろうか、と考えてみる。確かに何時の間にか病院に通うことがさほど苦痛でなくなっていた。一週間病院にいるうちに何度か訪れるストレスの種となる状況を、結局はあるものは切り抜け、あるものは回避して来たことになる。
私にとって最も苦痛で、しかしその克服が大きな希望ともなっていた、人前で話すことについてはどうか。これは何度かの経験を通じてそれほど苦痛ではなくなって来ていたが、それはそれなりの準備をして臨むからで、さもなくば立ち往生になって仕舞うかも知れないという恐怖はいつも感じていた。例えば映画について語り合う会で、私が見て来た映画を簡単に要約して伝えたいとする。私はパリで多少なりとも話題を呼んでいる映画をなるべくその会の前日に見に行き、既にその時点でフランス語で内容を要約する場合のキーワドを捜しておく。更にそれからその1、2分ほどしかかからぬ要約を少なくとも3回ほどは予め言ってみるのである。もしそうしなければ、実際その会で話す場合に基本的な表現が出ずにちょっとしたパニックに陥る可能性はいくらでもあるからである。
デイホスビタルのミーティングでの患者の紹介などをする時も同様の用意をするが、その場合は表現のしようのないことは別の内容に置き替えることが出来そうで、少しは楽である。しかし結局いつも最悪の状態にならないように気を張っていることにはかわりない。 
デイホスビタルでの患者との面談の際の抵抗は、それほど感じなくなっているが、それも相手による、というのが正直なところで有る。また患者本人との面談ならまだ良いが、例えばそれを気遺って面談を求めて来るその両親との面談となると、さすがに気が重い。私がライネック病院に移るといっても、誰も特別名残りを惜しんでくれるわけではない。それだけ私の影が薄かったわけであるが、そもそも留学生は研修場所の動きが多く、その役割も診療に直接関わる、というよりは見学生というニュワンスが強い事から、アンテルヌ、エクステルヌたちの就任の時の様にいちいち歓送、歓迎会をしたり特別の挨拶の場を設けたりはしない。だから留学生は皆突然病棟に来るようになり、多くは黙って去って行く。
私も何人かの特に世話になった医師に挨拶をしただけで特に誰に引き留められるわけでもなくネッケル病院を去ったわけだが、一人だけはっきりとそれを残念がってくれる人がいて、少し救われた気がした。彼はジャコブといい、二月からもう一人の医師と共にアンテルとして私達の科で働いていた。年は私と同年輩、精悍な顔つきでアラブ系の血が若干混じっていると思われる黒い髪と浅黒い肌が特徴的だった。私と彼とはここ二箇月ほどのうちに急速に病棟で一緒に行動するようになっていた。といっても主として彼の診療に私が付き添うだけである。もともとは週二回の彼のギャルド(日直としてその日の予約外の新患を担当する役目)の見学をすることを私の方から頼んだのであるが、そのうち彼は私がそれ以外の彼の診療にも付き添うことをはっきりと私に要求するようになってきたのである。彼は一般医のアンテルヌとして精神科に回って来たせいもあり、精神科の専門的な知識に関しては私の方が詳しい場合もあり、彼の診療の後に私に意見を求めて来ることがよくあつた。
ジャコブはよくも悪くも率直で、熱心な反面その振舞いに若干繊細さが欠けるところがあった。その患者との話し方は勢い患者に対する説得、指導といった傾向に傾きがちで、彼が近頃急に興味を示し出しているという精神療法的な面接を行なっているというには余りにも中立性や受け身性に欠けている気がした。それでも私は彼の熱心さが特定の患者の心を引き付け、そのはっきりとした指示的な態度が患者の症状の改善に役立っている様子を目にする場合があった。
ジャコブの診療に立ち会うようになってしばらくして、彼がネッケル病院の専属の精神分析家のプラックス氏の少人数の症例検討会にその様なケースの一つを出したことがあった。プラックス氏はジャコプの報告を少し聞いただけでその診療内容をすぐに察して、「それでは第一精神療法にすらもなっていないようだね。」という内容のことを言った。その意味をはかりかね、絶句して仕舞っているジャコブを横で見兼ねて、私は「確かに彼の態度には中立性は感じられないけれど、彼の診療に対する熱意は患者との陽性の転移関係を成立させていると思います。患者の生活態度の改善を週ごとに追ってみると、その生活目標を積極的に与える事の意味を一概に否定は出来ないと思います。」という意味のことをかなり苦労しながら言った。それを切っ掛けに少なくともプラックス氏はその批判的な語調を緩める結果になった。
ジャコプはその症例検討会が終わった後、私に握手を求めながら、「ケン、さっきは誉め言葉を有り難う。」と言って当惑する私を残して陽気に部屋を出て行った。私はその「誉め言葉compliment」という言葉を聞き、彼は今し方検討会で交された内容の真意を少しも分かっていないんだな、と感じた。その時から彼は事有るたびに私に半ば強引に彼の診療に付き合うよう求め、また彼の不在の時に私が代わって患者を見ることにしてしまった。彼は病棟でも暇さえあれば多くのガールフレンドの仕事場に電話を入れる、という癖があったが、それにさえも私を付き合わせることもあった。彼の時に一方的でアグレッシブな態度は病棟で皆の賛意を必ずしも得られていなかったため、何でも彼に付き合う私という存在は彼にとっても都合が良かったようである。それでも私は心からジャコプの気持ちを嬉しく思った。私の存在を特に認めてくれると感じられる人が殆ど誰もいなかく、いつも手持ち無沙汰にしていただけに、「君は言葉はまだまだだが、なかなかいいところがあるじゃない。」などと言って引っ張り回してくれる存在は感謝仕切れない程に有り難かった。彼のお陰で3、4月と病院での活動範囲がにわかに広がったような気がしたものである。
4月の末のある日、医師控え室でギリベール氏が私にライネック病院で人が足りなくなって来ているからさっそく行くように、と一方的に言い渡した時、たまたまそばにいたジャコプは不満そうな顔をして、ギリベール氏に「それは余りに急じゃないですか」と言い、当惑している私に代わってその真意をただしてくれた。私はそういう彼の複雑な気持ちが分かり、同時にとても嬉しかった。私がいよいよ明日からはネッケルに来なくなる、という日、ジャコプはやって来て私の顔を正面から見据え、「ケン、僕はサイコセラピーが出来ているよね。」といきなり詰間するように聞いて来た。私が「君のやっていることは広い意味でのサイコセラビーだと思うよ」と言うと、彼は始めてにっこりして、私に別れの握手を求めて来た。