さてここに解離は能力でもある、という考えを組み込むとしたらこうなる。「解離は能力であると同時に、場合によっては脆弱性ともなりうる」。この問題に関しては、昨今の発達障害の議論と重なっている部分があることを否めないのでそちらを見ておこう。 この発達障害に関しては、最近問題となっているのが、ASDをその個人の個性、ライフスタイル、DEI、ニューロダイバーシティと見なすか否かという議論である。それを個性とみなす以上、「能力であると同時に場合によっては脆弱性」という考え方が成り立つ。そしていわゆるインクルーシブな考え方は社会モデルとも呼ばれ、社会が勝手にバリアを作っているのであり、本人に罪はないという立場だ。(それに対する医学モデルは、その人に問題、ないしは障害が内在しているというものだ。) 実はこのインクルーシブネスの議論は、それなりに問題含みであるという。ASDにおいて高機能の人には「それは個性ですね」で通じても、低機能の人にはそれでは通じない、ということだという。それは確かにそうかもしれないが、解離についても似た議論が成り立つのだろうか。つまり高機能の解離はそれを活用できるが、低機能だとそれに翻弄されてしまうという考え方である。しかし解離の機能を高いレベルで活用すると言ったことが考えられるだろうか? 私には今ひとつピンとこない。それはなぜなのだろうか?一つの考えとしては、それが一種の生理的な反応として私たちの身に備わっているからであり、それを必ずしも意図的に使えないということが関係しているだろうか。 実は解離を自在にコントロールできている人を想像してみた。しかしピンと来ないのである。たちどころに睡眠に入る能力、とか急に涙を流す能力を持つ人を考えにくいのと同様、ある種の身体的、生理的な反応を含み、それは基本的には意志のコントロール下にないことと関係しているようなのだ。 ここでPorges のポリベイガル理論が参考になるだろうか。あるストレスにおいて背側迷走神経系が刺激されることが解離の最初のきっかけだったのだろう。これを一種のスイッチングとすると、交代現象にはおそらく同様の仕組みが働き、基本的にはそれを当人はコントロールできない。たとえそれを出来ている人でも、予想外の危機的な状況で起きるスイッチングをコントロールできないのではないか。私が臨床的に出会うのは、従来はスイッチングが起きてしまっていた状況を、いかにそれなしで耐えることが出来るようになったか、というタイプの体験なのだ。 やはりこれらの考えを総合すると、相転移の考えに至ってしまう。それは一つの心の中で処理することが出来ずに、それ自体が別のものに代わってしまう現象だ。だから人格Aと人格Bの間にあれほどの不連続性が見られる。そしてこれを能力と見なせる一つの根拠は、人格Bにおいては、人格Aには備わっていない能力や感性が見られることが多いからである。そう、やはりこの部分なのだ。能力と理解すべきなのは。