2026年4月2日木曜日

バウンダリー論 推考の推考 4

  上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは匿名性・自己開示の例であった。両方ともある種のバウンダリーが引かれていることで、それをめぐる二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれはバウンダリーを厳密に守る事に徹することによって、ではない。常に開始時間の2時に一秒の狂いもなくドアがノックされ、治療が開始されるのでは、何事も起きないであろう。しかしそこに生身の人間が関与している以上、ブレが生じ、治療者も患者も常にバウンダリーを念頭に置きつつ、それをめぐる綱引きが生じる。そして実際の開始時間はバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、「柔らかく」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーはもっとしっかりとした、太くしなやかなものとなって行くのだ。そうしてそのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくのである。心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、自己防衛のできる人間としてそこに存在し続け、その姿を患者に示すのだ。

 このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう? それは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はすぐに指摘されたり、ピシャッと跳ね返されたり、あるいは何事もなかったかのように無視されたりするだろう。「私の来週のキャンセルの理由をどうしてお尋ねになるのですか?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、剛構造的な治療者は「はい時間ですね!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。

  ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。それに触発されて私は渡米して精神分析のトレーニングを受けることを思い立ったのだった。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。

 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃない。それは多くの場合そのどちらとも決められないからだ。」

 つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはならなかった。ただしその種の出来事を柔構造的に扱うことが出来るようになるのである。

ところで剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的な運用のされ方をするかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。
 しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。

 ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、「後者」を儀式としたのだ。

 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。

 しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。以前、「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。

 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。