2025年12月16日火曜日

JASDに向けて 2

さて話題は解離にうつるが、問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かと言う問題である。これはASDとDIDの合併に関して考える際に重要になる。これについての内海氏の立場は以下の通りだ。
ASDでは影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある。それは昨日述べた直観的な共鳴という問題にも関連した、体験の地続き性に関係する。内海によれば、ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来する。それが不十分、ないしは不在であるという事は、おそらくどっしりした主人格的な存在が出来にくいという事を意味する。言い換えれば「自分がない」状態と言える。Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。
 さてこのように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それがいい子の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親に由来することは分かっていたとしても、それが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。(DWは人の目をのぞき込むと自分がなくなってしまい、その人になるという。(内海、147))
 それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて、そこでいったん質量をもった自分と衝突をし、しかし自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。
もっといい例はないか。絶対に「AはBだ」と言い張る母親に異論を唱えられないとする。ASDならごく自然にAはBだ、という自分になる。もともと自分がないから。定型だと自分は大抵自分の考えAはCを持っているから、「AはCだ」という自分は解離されることになる。
DIDにおいては他者への共感性が高いことが解離の原因ではないかと考えたことがある。
 どちらも同一化過剰ということが出来る。しかしASDの場合には直観的な共鳴sympathy で定型者は心を介する共感 empathy だというのが内海の説だ。(P24)