2025年11月22日土曜日

特別寄稿 6

ここから、私が授業で採用している方法(私なりのWDの変法?)について書くつもりだったが、その前に一つの disclaimer (但し書き)が必要だと思った。というのも「日本人はグループでは話そうとしない」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははぜったいにグループで積極的に喋らないタイプだったことを告白しなくてはならない。おそらく生来の引っ込み思案が関係していると思うが、私は極度の恥ずかしがり屋で気弱である。(このブログの題の通りだ。)アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかく無口だった。下手な英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(もともとディスカッションについていけないということもあったが。)だから「では質問のある方?」と講義の後で呼びかけて、シーンとされていても、自分が向こう側に至らシーンとする一人なので、その気持ちはとてもよくわかる。しかし他方では言いたいことを用意していたりもするのだ。しかし手を挙げる勇気がない。実はパリとトピーカで過ごした長い時間、「あー、またクラスで手を挙げて話すことが出来なかった。悔しい!」という思いを毎日のようにしていたのだ。クラスで思い切って発言したかどうかで、その日の後の時間の気分が大きく変わるから結構これは重大な問題なのだ。
しかしひとつ面白い体験があり、それはメニンガーでの体験グループでの体験だった。外国人留学生も交じって、力動的な体験グループに何度も出たが、20人、30人という人数のグループでも発言に不思議と抵抗がなかった。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めて言っていいのが力動的なグループだと思い込んでいたから、すべてを実況中継すればいい、と思えば発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに素(す)であることを許される場なのである。そしてもちろん同じことは分析を受けている時も起きた。分析家の前では何を言ってもいい、ということになっているから「素」のままでいい。

このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。