ギャバ―ド先生が最後にあげるのが全般性不安障害(GAD)であるが、この障害はいろいろ問題があるらしい。とにかく併存症が多く、このGADと診断される人の8~9割は別の診断を同時に持っているというのだ。そのうえでギャバ―ド先生は、GADの患者が訴えるであろう様々な身体症状に対して寛容であるべきだという。そしてそのうえで、それらの症状がより深いレベルの懸念 concern に対する防衛になっている可能性に対して開かれているべきであるという。その深いレベルと言えば、不安定―葛藤的愛着パターンであるという。最初に出てきた不安の階層構造の話を思い出して戴きたい。そしてそれが転移関係にも表れるとする。つまり患者の持つ、その関係が結局は失敗に終わるのではないかという懸念だが治療者に対して持たれるのだ。 ギャバード先生の本のまとめは終わったので、ここでこれまでの内容を私なりにまとめてみよう。 不安と言えば神経症症状の一つの典型である。そしてその神経症は精神分析的治療の対象とされる。では現代的な精神分析はこの不安の問題にどのように対処しているのであろうか。 精神分析においては、とても不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。「この意味で不安の存在、もしくは発現は葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)のである。しかし現代的な精神分析においてはこれに代わりより現実的で患者の側に立った議論がなされているようである。これに関して、ギャバ―ドの著書を参考にまとめてみる。(GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.)
精神分析理論において不安は中心的な位置を占める。フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。①マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものと、② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであり、後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis と呼ばれる。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたのだ。後者は単に患者の性的活動を高めればよいことになる。 その後1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。いわゆる不安信号説で、それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。(p.258) ギャバード先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、それ自身は意識化されて受け入れられるものであるという。そしてそれの抑圧がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。ギャバードさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。 超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。 Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985. しかしギャバードさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。このような古いモデルをいったん示して、「でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎないよ」と伝えるのが、ギャバードさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。