2025年3月5日水曜日

関係論とサイコセラピー 16

 さて順番が違うと思うが、昨今話題になった著書POSTについて改めてひも解いてみよう。POST(精神分析的サポーティブセラピー、岩倉他著、金剛出版、2023年)の内容を見ると、明確にこれを「分析的でない』とする方針を打ち出していることは意外である。POSTは以下のように定義されている(p4)。

 ①目標は患者の適応状態の改善である。

②無意識については扱わず(言及せず),意識を大切にする。

③転移一逆転移についての理解は治療者の心の中に留め置く。

④見立てや理解は常に精神分析理論に基づく。

⑤患者の自我に注目し,自我を支持する,つまり退行抑止的に関わる。

⑥自我にかかっている負担軽減を目的として,必要に応じ環境調整やマネジメント作業を行う。 ⑦自我を支え,補強することを目的として,励まし,助言などの直接的な介入も用いる。

⑧転移を扱わないため,治療構造や頻度,終結についての扱いは柔軟で多様である。

ウーン、転移をここまで切り捨てているとは思わなかった。これでも「精神分析的」サポーティブセラピーと言えるのだろうか。転移、逆転移は、治療者は心には思っても扱わない(言及しない)とある。かなりあっさりと転移を扱うことをあきらめた感がある。このことは改めて論じなくてはならないが、ここにはある古典的な前提がある。

「治療者は患者の無意識を(患者より先に)知っている。しかしいきなりそれを言葉にされても患者にとっては侵入的と感じたり、理解不能である。本当は患者の無意識にまで踏み込んで、変容を惹起したいところだが、それはPOSTの目的には反する」ということになる。

これは大変だ。どこから話していったらいいのだろう?

まずはたとえ話から。患者は治療者を父親のように感じて恐れているが、それに気が付いていない(無意識的である)としよう。治療者はそれをどうやって知ることが出来るだろうか、ということが問題だが、まあ知ることが出来たとする(というよりそれが事実であったと仮定する)。治療のプロセスでいろいろ紆余曲折があったとして、患者は最終的にヒアアンドナウの解釈により「ああ、先生のことを父親のように恐れていたんだ」と理解し、合点がいったとする。これは週4回でも週1回でも望ましいプロセスと言える。そしてそのようなプロセスは週4回では週1回より起こりやすいかもしれないが、これもケースバイケースである。頻度が低くても起きる可能性はある。 つまりヒアアンドナウによる解釈が時宜を得たものかどうかは、治療の形式だけでは一概に決められないのだ。何しろ週4回でも一向に深まらない場合もあるのだから。だからPOSTと言えども最初から転移を扱わないと決める必要はないのではないか。治療はあくまでも文脈依存的なのだ。さもないとPOSTも転移もかわいそうだ。そしてそれをどの程度扱うかどうかは治療の進展具合により判断していくものだろう。週4回でも週1回でも、時期尚早なことはしない。これは当然のことである。