藤山氏はさらに「精神分析らしさ」のある臨床素材を語り合う場合には、「精神分析もしくは精神分析的セラピーを中心とした訓練を十分に受けた経験のあるセラピスト」による治療であることが必要であると主張する(2016,p.29)。
藤山氏の主張で特に注目するべきなのは、週一回はむしろ「難しい」という一見パラドキシカルな主張である。基本的には週一回の場合の間の6日は「何の環境的供給もない」「分離という外傷的できごと、寄る辺なさ(helplessness)」(2024,p.65)に患者をさらすことであるという。そして精神分析的な治療の根幹となる転移の問題を扱うことが非常に難しくなるという。「転移、特に乳幼児的な水準の関係性を帯びた物語は圧倒的な分離に吹き飛ばされ、ごく離散的に体験されるにすぎなくなる。この状況の中で『転移解釈』という関係性を帯びた物語を紡ぎだしそれを語るという行為はかなり実現困難だろうし、それに治療的重要性を与えることも現実的ではないのではないだろうか。」(同p.66)とする。
この藤山氏の議論は山崎氏の「週一回の精神分析的心理療法における転移の醸成」という論文でさらに考察が加えられている。これが私の眼にはかなり学問的なレベルも高く、それだけに容易に読み込むことはできないものの、藤山氏の議論が実はStrackey だけでなく、Melzer(1967)やCaper(1995)、飛谷氏(2010)などにより継承されてきた議論であることを伝えている。(はっきり言って、この機会がない限り私は決して知らなかったことである。)