だんだん論文としての形を整えていく
解離症における知覚体験について
はじめに
解離症における知覚体験について論じるのが本稿のテーマである。解離症の臨床を通じて体験されるのは、患者は様々な異常知覚を訴えることが多いということである。解離症は一般的には、「意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻および/または不連続」により特徴づけられるものとして定義される(DSM-5-TR)。そして知覚体験についても、その欠損や異常知覚が、その他の心的な機能との統合を失った形で見られる。さらにそれらと統合失調症由来のものや脳の器質的な異常により生じるものとの鑑別が必要とされるという点では臨床的な意味合いは大きい。
幻覚及び知覚異常体験一般について
まず知覚の異常として筆頭にあげられるものは幻覚である。その定義としては「対応する感覚器官への客観的な入力がないにもかかわらず生じる、あらゆる様式の知覚的体験」とされる(Walters, et al, 2012)
幻覚はしばしば深刻な精神病理、特に統合失調症などの精神病状態におけるそれを思い浮かべるが、実際にはその生涯有病率は5.2%とされる (McGrth, et al, 2015)。
ちなみに偽幻覚 Pseudohallucinations (Mustafa,2020) という表現も見られ、これは非精神病性の、機能的な知覚障害を指すものとされるが、この言葉自体が差別的であるという立場もあるため、本稿ではこの表現は用いない。
幻覚体験一般についてはOliver Sacks のユニークな書「幻覚の脳科学」がそれを網羅的に論じ、非常に参考になる。
Sacks は脳の一部の過活動により幻覚が現れるメカニズムについて論じている。いわゆるシャルル・ボネ症候群(CBS)は希なものとされていたが、実は盲目の患者の多くに奇妙な幻覚体験が聞かれることを示している。CBSにおいては大脳皮質に対して入力が途切れた場合、そこに何らかのイメージが投影され、それが幻覚体験となって表れることがある。
このCBSとの関連で論じるべきなのはいわゆる感覚遮断の影響である。
Sacks はまた幻覚の脳科学的な基盤についてブランケを引用し、脳の右角回の特定の部位を刺激することによる体外離脱体験について言及する。そして『自己が体から解離する体験は、体からの情報と前庭からの情報を統合できない結果である』と推測している。」(p.313)と記述している。
解離症状としての知覚異常と幻覚
幻覚を含む知覚異常は多岐に及び、その機序を解明することは難しいが、その中でそれを解離の文脈でとらえる向きがある(Longden, et al. 2012)。
そこで解離性障害の症状としての知覚異常はどのように定義されているだろうか?
DSM-5における解離症群は従来の転換症状が「機能性神経症状症」として記載されている。そこには「感覚症状には、皮膚感覚、視覚、又は聴覚の変化、減弱、又は欠如が含まれる」とあり、症状の形態としてはあらゆるものを取ることを想定している。またそれが解離性症状であるという診断を支持する徴としては、「ストレス因が関係している場合があること」、「神経疾患によって説明されないこと」「診察の結果に一貫性がないこと」(315)などが挙げられている。すなわち解離性の知覚異常は、器質因によるものとは異なり、場合によってはある心理的な要因を伴って生じ、またその表れ方が状況により変動するという性質を有するのである。
また解離性の知覚の異常ということについては、そこには視覚の脱失も生じうることに注意すべきであろう。そしてその理解のためにはいわゆる解離の陽性症状と陰性症状という考え方に立ち戻る必要があろう。このように解離性の知覚異常を捉える際に重要なのは、それがその他のあらゆる解離症状を随伴し得る可能性があるということである。事実解離性の知覚異常にはその他の精神性、運動性、感覚性の解離症状を伴うことが多い。ここではそのようなあり方をする古典的な例を示しておくことが有用であろう。
症例アンナO.(ブロイアー)に見られる幻覚体験
ここで紹介する症例(アンナO) は Breuer と Freud による「ヒステリー研究」(1895)できわめて詳細に紹介されている。このケースは解離性障害が示しうる症状群を一挙に紹介してくれるという意味ではとても参考になる。その中で彼女がどの様な文脈の中で幻覚ないし知覚異常を示したかを知る上でも簡単にさらっておこう。
アンナO.の発症は彼女が敬愛する父親の発病(1880年7月)をきっかけに始まった。そしてそれは多くの症状が複合したものであった。つまり「特有の精神病、錯語、内斜視、重篤な視覚障害、手足や首の完全な、ないし部分的な拘縮性麻痺」である(フロイト全集、p.25)。そして父親の容態と共に彼女も徐々に憔悴し、激しい咳と吐き気のために父の看病から外される。ここでブロイアーが呼ばれたが、ブロイアーはアンナが二つの異なる意識状態を示すことに気が付く。一つは正常な彼女だが、もう一つは気性が荒く、又常に幻覚を見、周囲の人をののしったり枕を投げつけたりしたという。これがいわゆる意識のスプリッティングという現象であったが、それは多彩な幻覚を伴っていた。その一つは黒い蛇であったが、それは彼女の髪やひもが変容したものであったという。それと共に最初は午後の傾眠状態で現れた解離症状に錯語(言語の解体)や手足の拘縮が伴うようになった。また特有の色覚異常も伴い、特定の色だけ、例えば自分の服の色だけ、それが茶色であることはわかっているのに青に見える、などの体験を持った(p.39)。そしてそれは父親が着ていたガウンの青色が関係していることが分かったということだ。
ブロイアーはまたアンナO.に見られた聴覚異常についても丹念に記録している。それは誰かが入ってきても、それが聞こえない、人の話が理解できない、直接話しかけられても聞こえない、物事に驚愕すると急に聞こえなくなる、などである。(p.43)
ここで興味深いのはアンナO. の幻覚はそれ自身が単独で起きるというよりは様々な解離症状(意識の混濁や言語の解体や手足の拘縮など)を伴っていたということである。さらに彼女の知覚異常についていえば、それが時に応じて様々な形を取り、いわば浮動性を有していたことである。
このようにアンナO.の体験した幻覚はその陰性のものも含めて様々な身体症状の出現の一つとして現われていたということが言える。そしてそれは固定した病状を取ることはあまりなく、時間とともに変遷し、また心理的な働きかけにより消長を見せたのである。