2024年9月29日日曜日

統合論と「解離能」21 

ダラダラと考えながら書いてきたこの「統合論と『解離能』」のシリーズももう22回目である。これまであまりいいアイデアは浮かんできていないが、一つ言えるの治療目的=統合という考えはもう古いということだ。そしてそれはそもそもは解離=悪い事、病理と決めつける考えも古いということである。そもそも人格の統合を目指す臨床家の心のうちには解離(=病理)をなくすべきだという発想があるのだろう。しかしそうであろうか? これとの関係で触れなくてはならないのがいわゆる「解離能」の問題である。 Judith Herman (1992)はトラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてその上でトラウマの体験時にこの能力を使えるか否かでDIDとBPDを分けている。DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。 BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。 どこまでこのように決めつけられるかは別として、一つの重要な見識である。しかしこのように解離を一つの能力と見なすという立場は文献でも意外と少ない。中島幸子氏は「解離は障害であり、力でもある」という論考で、そこで言っている。「解離が出来たからこそ生きのびることが出来たのであれば、それは能力であり、ゼロにしてしまう必要はないはずです。」 (中島幸子(2024)「解離は障害であり、力でもある」精神医学 現代における解離 66:1085-1089.)これは大いに注目すべき議論だ。どの様な心的機制についても何が payoffs (それによる利得)で何が pitfall(落とし穴)かを考えるべきなのだ。そして解離にもそれがある。 ネットでダウンロードした論文を読んだ。 Richardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210. 「解離とは機能的な機能不全である」というちょっと挑発的なテーマだ。 その抄録には次のような主張がなされている。 もし現実のある側面が対応するにはあまりに苦痛な場合に私たちの心は何をするのだろうか。苦痛に対する自然な反応と同様、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。私達の心にとって解離はその一つのメカニズムだ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常の機能を継続することを可能にしてくれるのだ。How does our mind protect itself when some aspect of reality is too painful to cope with? Like any natural response to pain, we have psychological mechanisms which protect us from severe emotional trauma. For our mind, one of those mechanisms is dissociation. It allows us to continue to function in everyday life without experiencing what could be debilitating emotional pain.