2023年1月7日土曜日

精神分析と複雑系 1

精神療法と複雑系

 栄えある学術誌「●●療法」の巻頭言を書かせていただく光栄を得た。そこで改めて精神療法とは何か、という私のこれまでの経験を振り返りたい。

私が米国で精神分析家になったのは2003年である。2004年に帰国して日本精神分析協会でもその資格を認められたのが2005年。続いて訓練分析家になったのはそれあら13年後の2018年のことである。ちなみに訓練分析家とは、いかにも訓練を受けている分析家というニュアンスを与えるが、逆である。精神分析家になるためのトレーニングを受けている先生方(候補生という)の精神分析をさせていただくという大変名誉ある立場であり、いわば精神分析家としてのキャリアーの中では最上位のレベルということになる。 私は現在日本で13名しか存在しない訓練精神分析家の一人として名を連ねているのだ。精神分析の道を選ぶ多くの人が最後にたどり着くこの資格を持っているということを改めて自覚するとどこかに満足感がある。私の自己愛はそれなりに満たされているのだ。しかし同時に私はこのことに後ろめたさもあり、「勘違いしないでほしい」という気持ちにもなる。私はなるべくしてなった訓練分析家とは違うのだ、正真正銘の訓練分析家とは異なるのだということをわかってもらいたくなるのだ。

私が分析のトレーニングを受けたのは米国のカンザス州トピーカというところにある精神分析協会だったが、そこで当時訓練分析家であったそうそうたる先生方の面々を思い浮かべる。そこでの老練の訓練分析家たちはかなり高いハードルをクリアーしてそこに上り詰めていた。いわば精神分析家を主たる稼業として、精神分析家になってからも何例ものケースを扱い、かなりの老境に達してからようやく訓練分析家になったという姿を見ていた。(中にはDr. Glen O Gabbard のように若くして最短コースで上り詰めた例もあったが。)精神分析家になってからそれ以上の地位を目指すということは私の中には全くなかったのである。私の精神科外来の仕事と大学院での教育の仕事でそれどころではなかったというのが正直なところであった。ということで精神分析協会の中でも半ば幽霊会員のようになりつつあった。

「キミも訓練分析家になることが出来るよ。チャレンジしてみたらいいじゃないの」と、分析関係の大先輩A先生から声をかけられたのは2012年ごろだった。私はかつてはAにたいへんにお世話になりその後姿を見ながら精神分析の訓練のために米国に渡ったという経緯がある。候補生→分析家→訓練分析家といういわば出世コースを思い描いていた頃の昔の気持ちがフラッシュバックして「こんな自分でも訓練分析家になれるのか?」という思いでその資格を得るための週4回の分析のケースを再び持ち始めた。それは家庭生活や病院勤務などに様々なしわ寄せを及ぼすこととなったが、気が付くと数年後に私は教育分析家になるための関門をクリアー出来て、晴れて教育分析家になったのである。

さてそこから振り返って何が見えるのか、ということがこの「巻頭言」のテーマだ。

 私が改めて思うのは、精神分析協会というのは一種のヒエラルキーの世界であるということだ。そしてそのヒエラルキーを上り詰めることにはある種の手続きが必要となり、それを踏むことのできた人間が訓練分析家となる。そしてそれとは立派な治療者がそこに上り詰める、ということとは違う力学が働いている。もちろん両者が不一致だと言っているわけではないが、両者は明らかに違う。もし「優れた治療者」があるファクターXを備えているとしたら(実はそんなファクターについてその正体を議論しだすときりがないのであるが、まあ漠然とそんなものを想定することが出来ると私は考えるので、このような仮定をもうけておこう)それをあまり持たない人が十分な知性とモティベーションをもってその「手続き」を踏めば、そしてそれを支えるような時間と資力と家族の支えがあるならば精神分析家に、そしてその上の訓練分析家にもなれるのだ。そしてそのような地位に立った訓練分析家はそのスーパービジョンや訓練分析で権威としての言葉を発することになる。その場合訓練分析家はそのような自分の言葉に込められた権威についてあまり疑問視することがなくなる。なぜなら訓練分析家としてのB先生が、精神分析の候補生や、そのようなトレーニングの素地がほとんどない治療者C先生をスーパービジョンするという構図自体がそのヒエラルキーの中に位置づけられているからだ。そしてそこでは訓練分析家B先生はおそらく高度なレベルで「優れた治療者」(高いファクターXを有する人)として通用し、そのことをもはや疑問視しなくなるからだ。

このようなシステムは問題だろうか? おそらく。しかしトレーニングのシステムを構築する場合、特にほとんどその分析家としての実力を明示する手段がない以上、その実力とは別に、手続きを踏んだ人がヒエラルキーを上り詰めるという側面はついて回るであろう。

私は藤井聡太君のファンだが、将棋の世界のように明白な実力の世界で起きていることを見ているとある種の爽快感がある。「地位の高い棋士」(タイトル保持者、高段者)が「優れた棋士」とまったく一致している世界は分析の世界のようなモヤモヤ感がないために極めてフェアで、かつまた厳しいのである。何しろ永世竜王、永世王位、永世棋王・・・・の羽生さんが、試合に負けるとただの九段になってしまうのである。