2021年2月11日木曜日

CPTSDのエッセイ 3

 さてここで問題なのは、このDSOが、CPTSDをしっかり反映しているかということだ。しかしその前に、ではCPTSDは便利なラベリングだという私の考えについて説明したい。私自身がCPTSDに対して持っているイメージを考え、それが実際の診断基準とどの程度マッチしているかという問題だ。

私たちが出会う人々の中には、ある種の世界観が成立していてそのために自分の生き方を狭めていたり、本人に不幸を導くような信念を持っていたりする人々がいる。そしてその一部はおそらく幼少時の、あるいは長期にわたるトラウマ体験に由来するのであろう。そしてその症状はPTSDに代表されるような、単回性のトラウマにはとどまらないはずだ。長期のトラウマにはその大部分に人災の要素が伴うであろう。もちろん二月以上もの間地底深くの炭鉱に閉じ込められた南米チリのコピアポ鉱山落盤事故などの例もある。しかし多くは虐待者により長期にわたって慢性的にトラウマを受け続けていたケースが多い。そこでは虐待者との間で一種の洗脳状態に陥り、他者との安全な関係性を気づけなくなってしまっている例もある。それらの人々の中で特に目に付くのが、自分が生きていること、この世に存在していることへの迷いや葛藤である。自分は生きている価値がないのではないか、人から求められてはいないのではないかという深刻な疑念が生じることが多い。またそれらの人の多くはいわゆる解離症状をその防衛手段として身に着けている。その時々により異なる自我状態となり、当座の難局やストレスに満ちた状況を切り抜けるのである。

そのような人の問題を、自己イメージ、他者との関係、情緒的な問題の三つの分野に分けるとするならば、ICDDSO(自己組織化の問題)の概念はなかなかうまくできていると言わざるを得ない。繰り返すがDSOとは以下の3項目により構成される。

AD: affective dysregulation 情動の調整不全 

NSC: negative self-concept 否定的な自己概念

DR disturbances in relationships 関係性の障害

 

となると私はこのCPTSD概念に満足してしまっていて、特に何も書くことはないという風になってしまう。ただこの概念に対するいくつかの疑問もある。

一つはこのような人生観を持った人々について、それを彼らの長期のトラウマに帰することが出来るのであろうかということだ。このうち関係性の障害と情動の調節障害は非特異的な問題でありいわゆるパーソナリティ障害でこれらを有さないケースはないであろう。また否定的な自己イメージにしても、これがトラウマに帰せられるべきかと言えば、そうでないケースもたくさんあるであろう。

それとの関連で言えば、ハーマンがこのCPTSDを事実上境界パーソナリティ障害と結びつけていたということも気になる点である。おそらく現代の精神医学者で、CPTSDからボーダーラインを連想する人は少ないのではないか。それほど両者の間には距離がある。この問題をどう考えて行くか。ボーダーラインをトラウマの関連で理解する筋道が残されているのか、ということだ。

もう一つの論点としてはDSM-5CPTSDが所収されなかったという問題をどう理解するかであろう。WHOCPTSDと診断されるような一群の人々が米国の診断基準ではどのように扱われるのか、という問題だ。そして第3には、冒頭に書いたような問題、つまり解離陣営とPTSD陣営の綱引きはこの概念の当上位によりどのように変わっていくのか、という点である。