2021年1月2日土曜日

死生論 31

 ここでまた理論的な修正が必要になった。Xは確かに快ではあっても享楽とは違う。私にとってのAも快ではあっても享楽ではない。むしろ苦しさが伴う。でもそれは死への不安をいやしてくれる作用がある。それは怖い対象を取り入れるプロセスともいえる。まさにフロイトの言う喪の味見 foretaste of morning なのだ。私はAを希求する。しかしそれは私がそれを望むという意味では快楽的だが、享楽的ではない。少なくとも単に気持ちいい、というだけではない。走ることが好きな人に、「走ることは気持ちいいですか」、と問うと「単に気持ちいいだけではない」と答えるだろう。

 それはまた祈りのようなものかもしれない。僧侶が一心に神に祈りをささげる。それはある種の生きがい、生きている感覚を生むだろう。そしてそれはまた消耗感を必ず伴っている。滝行を考えればわかるとおり、決して楽な営みではない。むしろ苦痛を伴う。それなのにどうしてそれを求めるのだろうか。Xは苦痛を伴うが、結果的に不安を払しょくし、プラスマイナスでより多くの快を保証するからだろうか。それに比べて享楽は快を保証するが結局は死へと向かわないことによる不安を生み、総量としてはXに及ばないということだろうか。いやむしろ何をやっているのか、その内容が問題なのだ。フロイトのいう喪の先取り、自らの死を悼む作業だ。享楽は死を回避するが、快楽は死に向かっている。

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そろそろアーネスト・ベッカーの本に戻ろう。145ページのあたりで、ベッカーは転移のことを言っている。人はなぜ転移を起こすか。それは恐れを飼いならすためだという。過酷な現実に立ち向かうために、全能の力を持った人に依存するのだ。これは結局幼児にとっては母親的な対象ということになるだろうか。すると幼児は「転移恐怖 transference terror」も抱くことになる。つまりその対象の不興を買ったり、その対象が失われてしまうのではないかという恐れを抱くのである。自分の死に対する恐怖は、その具体的な対象の存在可能性へと移される。転移の概念もこのように考えると人間存在の本質に迫るようなテーマを孕んでいるという事だろうか。そのような主張を、オットーランク、カミュ、ブーバーなども言っているとベッカーは主張する。人は決して一人で生きていくことが出来ない。だから人に頼るのだという(p.158)

8章からはいよいよオットー・ランクの章だ。 彼は現代人にとっては人を愛するとは宗教的な問題だという。そしてそれは恋愛は例の Causa-sui 計画を引き継ぐ意味があるからだという。愛は、そして生殖は不思議と死へと結びつく。動物は生殖をしたのちに死を迎えることが多い。メス鮭は必死の思いで川をさかのぼり、産卵してボロボロになって死んでいく。私は恋愛は一種の狂気だと思うが、人(正常であっても!)があそこまで巧みに狂気に陥るのはそれが生殖につながっているが故の必然だからだ。