2020年10月2日金曜日

他者性 推敲 4

 統合失調症においては「能動性の意識」「単一性の意識」、「同一性の意識」「限界性の意識」の障害がすべてそろって障害されていることになっている。その意味では自我の分裂という意味での schizophrenia はまさに単一の意識の分裂の典型といえる。
 例えばAさんが「あいつは敵だ」という幻聴を聞いて、Bさんに攻撃を仕掛けるとする。いわゆる命令性の幻聴である。これを統合失調症のケースと考えるならば、この場合は先ほどのヤスパースの例では1~4が様々な形で制限される。あの人は敵だから攻撃性よ、という声は、そのまま実行される。その意味で「させられ」ですらないだろう。2も問題だ。他者の声(幻聴)が自分の意図になるという意味では、もはや単一の行為主体ではないことになる。同一性は? これはあまり問題とならないだろう。昨日の自分は今日の自分でもある。そして4の境界も怪しくなる。「アイツが敵だ」という声が自分の考えになる、というのは自他の境界があいまいになる、という言い方をされるが、自他の区別の意味がなくなる、という言い方の方が正しいのではないだろうか? その意味ではSにおける行為は「自分が」行ったことであり、それに対して免責が行われるというのは矛盾しているともいえる。

ダイナミックコア説とDID

ここまでの論述は少し回りくどかったが、私はエーデルマン G.Edelman、トノーニ G. Tononi の両先生が著した著書に提唱されているダイナミックコア(以降DC)という概念を紹介したい。これはエーデルマンらが人間の意識を成立させる神経ネットワークとして想定したものである。彼はこのモデルをもとに、なぜ意識が主観的な感覚、ないしはクオリアを有するのか、それがコンピューターによるシステムにどのように類似するのかについて考察している。彼のいうDCは具体的には視床と大脳皮質の間の極めて高速の情報の行き来が生じている神経ネットワークである。彼らはこの情報の双方向性の行き来という点を極めて重要視し、それが意識が成立する上での決め手であると考えている。ここ以降は、いくつかの図を用いて説明したい。(図はいずれも省略)

まず最初の図であるが、右側はエデルマン・トノーニのDCの模式図であり、右側はそれを簡易型に書き直したものである。DCは実は大脳皮質、視床、大脳辺縁系を含むかなり複雑なニューラルネットワークであるが、その複数の存在を図示するためには簡単な記号のようなものに置き換える必要があるのだ。この図で特に強調して示せているのは、視床と大脳皮質の間の両方向性の情報交換である。大脳皮質は個別のバラバラの情報の入力で、視床はそれをまとめて形にする部位である。それらの間の情報の交換がその仕事をより効率よくする。
 次の図はそのDCが左右一対存在することを示している。それらは脳梁を介して一つながりになっていることが示されている。

  ここで注目するべきなのは、彼らはこのDCが複数存在する可能性を想定していることであり、それが解離性障害や統合失調症と関連しているのではないかという推察も行っている。  
 次が最後の図であるが、DIDにおいてDCがどのようにかかわっているかを示したものである。左側は「健常」人ということであるが、この「健常」に付けられた鍵括弧にご注意ください。というのもDIDの状態が健常でない、という保証はなく、ひょっとしたら私たちはDCを複数持っているかもしれないのです。そして右側はDCが複数存在するという、エデルマン自身が予言した事態だ。ここでいくつかのDCを重ねて描いたが、それぞれが上で示したような視床と皮質の間の頻繁なネットワークの行き来と、大脳基底核との関連を有しているのですから、重ねて描くことになる。ただ具体的にどのように重なっているかは誰にもわからない。それらはひょっとしたら本当に解剖学的にずれているのかもしれない。しかし一番考えられるのは、同じ解剖学的なエリアの中に、それぞれ異なったネットワークとして成立しているという可能性もある。あるいは一つの脳波がフーリエ展開するのかもしれない。いずれにせよそれぞれ異なるネットワークからなるDCがそこに存在していると考えることができるのだ。

まとめ

この発表では、解離性障害における他者性の問題を考え、DIDの症状を説明するような脳科学的な基盤を求めて、エーデルマン、トノーニのDCモデルに行き着いた。さてこのように考えて行くと、交代人格のそれぞれがそれぞれ別のDCを備え、したがって互いに他者であるということに異論はないであろう。このような交代人格の個別性は私がいくら強調しても、し過ぎることはない。彼らは異なる味覚を持ち、異なる美的感覚を持ち、異なる性別を有するということが何よりもそれを示していると考えることができよう。