ということで精神分析における議論に移る。要するに揺らぎは精神分析の中にも生きているということを示したい。心の力動、ないしはダイナミズムという概念は古くもあり、新しくもある。フロイトは19世紀末に心の在り方としてのダイナミズムを考案した一人である(Ellenberger,
1970)。ダイナミックな心を近代において切り開いたのがフロイトであり、ユングであり、ジャネだったのである。心のダイナミズムは現代的な考え方では揺らぎや振動や複雑系の理論とも関連し、そこには私たちの中枢神経系の在り方も含まれることはすでに述べた。
フロイトがこの揺らぎの問題に触れているのは、「無常ということon the transience」(1916)という論文であり、そこで彼は「花は将来かれてしまうからこそ美しい」という言い方をしている。これは実質的な彼の死生観についての吐露で、すなわち人は死を覚悟することで価値ある人生を全うすることが出来るということを示唆していた。これは彼の一つの処世術ともいえ、ザロメに書いている「人はあきらめることを知ったらよりよく生きることが出来る」という様ないい方に繋がっている。フロイトはこのような状態を、「喪を行うこと」で成り立たせることが出来ると考えていたのだ。要するに喪の作業を徹底操作すれば対象を諦めることが出来ると考えた。しかし後にフロイトはそのような形での喪の貫徹ということに懐疑的になって行った。すなわちそれは死を完全に受け入れることについても懐疑的になって行ったことを意味する。
結論から言えば、人の死の受け入れには非常に大きな個人差が存在し、その受容はそれこそ揺らぎながら進行していくということだ。死の完全なる受容を達成したと思えた次の瞬間には、私たちはそのことを忘れて仕舞っているし、ちょうどその逆のことも起きている。そしてこの種のゆらぎが私たちの心に情緒を生み、逆にそれを失ったある種の定常状態は心の死を意味するということなのだ。フロイトの後期の概念はそれを示唆しているのである。そしてそれは日本文化における無常や儚さの概念とも非常に近いことがわかる。
そこでこの種のゆらぎやダイナミズムが失される危険についても触れてみたい。それはフロイトが仮説的に考えた喪の完遂ということである。私たちはこれをある種の静的で安定した状態であると考えることが出来るが、そこにはもはや感情や感覚はないだろう。私たちがここで思い出すのは、フロイトの「大洋感情oceanic feeling」という概念だ(Freud, 1927)。それはフロイトによれば「永遠で、限りがなく、境界がない」(p. 64)ということになるが、そこでは心は母親の子宮に回帰し、母との完全なる合一を達成することになる。その状態はいかに理想化され、喜びに満ちた状態であると想像されても、それ自身は空虚で意味を持たない可能性がある。フロイトが考えた自己愛の状態も、それが第一次であろうと第二次であろうと、同じような状態であると考えることが出来る。