さてフロイトとフェレンチとの対立が何に由来するのかについては議論が多い。ここでは3つの説を唱えたい。
1.
フェレンチの患者を愛で救おうとする治療技法をフロイトが問題視した。(多くの分析家の意見)
2.
フェレンチのトラウマを病因とする態度をフロイトが問題視した。(マッソン、など。)
3.
三つの要因があって、どれも重要だった。つまり治療技法、理論、そして個人的な問題である。この個人的な問題とはフェレンチの転移の問題である。
私の個人的な意見としては、マッソンに少し近い。というのもユングもかなり患者と近い関係にあったし、フェレンチも何しろ母娘の両方と関係を持っている。トンプソンが「フェレンチ先生はいくらキスしてもいいって言ってくれたの」と言ったくらいでフロイトはカッカしなかったはずだ。私は残念ながらフロイトが「あなたは患者に対して間違ったアプローチをしている!」という怒り方をする人ではないと考える。彼は患者のために一肌脱ぐことにそれほど生きがいを感じなかった人である。フロイトは何よりも自己愛の人で、自分のプライドが傷つけられることに極端な反応をする人だった。だから外傷論の棄却、精神分析の確立、という既定路線に異を唱えるフェレンチは反逆者であり、フロイトはそれを決して看過できなかったのだろうと思う。それともう一つは、フロイトの後の記載からは、フェレンチの方からフロイトに喧嘩を売っていたというニュアンスがあるのだ。フロイトはフェレンチとの体験について、晩年に書いた「終わりある分析、終わりなき分析」の中で触れている。岩波の著作集から抜粋する。
私の個人的な意見としては、マッソンに少し近い。というのもユングもかなり患者と近い関係にあったし、フェレンチも何しろ母娘の両方と関係を持っている。トンプソンが「フェレンチ先生はいくらキスしてもいいって言ってくれたの」と言ったくらいでフロイトはカッカしなかったはずだ。私は残念ながらフロイトが「あなたは患者に対して間違ったアプローチをしている!」という怒り方をする人ではないと考える。彼は患者のために一肌脱ぐことにそれほど生きがいを感じなかった人である。フロイトは何よりも自己愛の人で、自分のプライドが傷つけられることに極端な反応をする人だった。だから外傷論の棄却、精神分析の確立、という既定路線に異を唱えるフェレンチは反逆者であり、フロイトはそれを決して看過できなかったのだろうと思う。それともう一つは、フロイトの後の記載からは、フェレンチの方からフロイトに喧嘩を売っていたというニュアンスがあるのだ。フロイトはフェレンチとの体験について、晩年に書いた「終わりある分析、終わりなき分析」の中で触れている。岩波の著作集から抜粋する。
これに関連してわたしは、すぐつぎの実例で示そうと思うのだが、分析の実践から直接に得られた二つの問題についてとり上げたい。自らも分析を行って大きな成果を収めていた一人の男性がいる。彼は、だれに何と言われようと、自分の、男性に対する関係、女性に対する関係が ―― つまり彼の競争相手である男性たち、および彼が愛している女性に対する関係が ―― 神経症性の障碍から自由になっていないと判断する。そのため彼は、自分よりも優っていると見なしている別の分析家の分析対象となって、分析を受けることにする。このようにして自らの人となりを批判的にくまなくスキャニングしたことは、彼に十全な成果をもたらすことになる。彼はその愛する女性と結婚し、さらに、自分が誤ってそう思っていたところのかの競争相手たちの、友となり教師となるといった変貌をとげる。かつての分析家との関係についても、なにも損なわれないまま多くの年月がすぎる。しかしその後、はっきりとした外的な理由は不明なまま、一つの困難が生じる。被分析者は分析家に対して敵対的な態度をとりはじめた。彼は、分析家が自分に対して完全な分析を行うことを怠った、といって分析家を非難する。すなわち、「だってあなたは、転移関係というものがただ単に陽性のものだけであるはずがない、ということを知っていなければならなかったし、考慮に入れていなければならなかったですよね。つまり、陰性の転移の可能性を気にかけていなければならなかったですよね」と。それに対して分析家はつぎのように釈明する。「分析を行っていたときは陰性転移なんてまったく気づかなかったのだ。しかし、そういった陰性転移のごく微かなサインがあつたにもかかわらず、わたしがそれを見逃した、ということがたとえ認められたとしても ―― 分析のあのような早い時期の地平のまだ狭い状況下にあっては、そういった見逃しがあることは否定できないわけだが ―― なんらかの主題、あるいはわたしたちの言う、なんらかの「コンプレクス」に対して、ただ指摘するだけでそれを活性化させることができたかどうか、疑わしい限りだ。患者自身のなかでもそれは現勢的ではなかったのだから。しかし、それを活性化させるためには確かに、患者に対して現実的な意味で非友好的な行動をとる必要があったかもしれない。また、ことのついでに言えば、分析家と被分析者の ―― 分析中および分析後の ―― 仲のよい関係をことごとく転移と見なすべきではなかろう。現実的に基礎づけられ、生きる力のあることが明らかとなる友好的関係もあるのだから」と。
ちなみにこの文章で下線を引いたのは私(岡野)である。要するにフェレンチはフロイトに喧嘩を売っているという感じなのだ。「先生はどうして僕のことをわかってくれないんですか?」というフェレンチの不満が、実は「先生のことをこれほど好きなのに、どうしてもっと可愛がってくれないんですか?」というメッセージだという事にフロイトは気が付かなかったようなのだ。
それはさておき・・・・。バリントは1969年になり、フロイトとフェレンチの書簡集、そして臨床日記を出版しようとするが、まだそのような雰囲気は出来ておらず、1970年に両者を妻の Enid
に託してなくなる。Enid は臨床日記はフロイトとフェレンチの書簡集が出版されないと意味をなさない、というより誤解を受けると感じていた。そして結局アンナ・フロイトという超自我の死去により、臨床日記はフランス語で1985年、英語で1988年に出版された。ところが書簡集はそれより遅れて1992年にフランス語で出て、1993年に第一巻1996年に第2巻の英訳が出版されている。日本語では無理だろうなあ。何しろ1000通あるというのだから。