2019年6月18日火曜日

解離への誤解 推敲 4


いまだに使われる「ヒステリー」という僭称

ところで最近でも「ヒステリー」という言葉は今でも使われるのだ。例えば次のような使われ方がある。
最近仕事に行けないという若い新入社員の男性。上司の指導の理不尽さを訴え、職場のブラック気質について話し、仕事をしばらく休むためにうつ病の診断書を書いてほしいという。しかし診察した様子からはその男性からは抑うつ的な印象は受けず、むしろ自分の思いを通そうとしているように思える。精神分析的なオリエンテーションを持つ医師はこうつぶやく。「うつ、というよりはヒステリーだな…。」
このような時に用いられるヒステリーは解離性障害とは無関係で、むしろ患者自身が持っているある種のスタンスないしは態度を差す。ただしそれはその患者に固有の性質というよりは、それを周囲がどう受け取るかを言い表している。すなわちその人が疾病により何らかの利得を得るという意図、すなわち「疾病利得」の存在を感じさせるという意味だ。ここでトラウマ神経症が生まれるまでの経緯を、すなわち100年前のことを思い出そう。トラウマは症状の発生には触媒的な意味を与えるだけであり、そこには「願望複合体wish complex が出来上がるのだとした。そのことがこの疾病を呈する患者の爆発的な増大ないしは流行を引き起こすことが懸念された。現在の見地からは戦闘体験や自然災害その他のトラウマにより人が精神を病むということ、そしてそれはその他の身体、精神疾患と同様にケアや賠償が必要であることは識者の間で十分受け入れられていることだ。しかしそれでもヒステリーという呼び方には治療者側の同様の疑いが込められている。少し話を広げるならば、同様の傾向は現代の社会保障制度が整備されつつあるにもかかわらず存在し続ける。生活保護の制度についても同じことが言えるかもしれない。働けない人の経済的な援助を公的な機関が行うという概念は、それが成立するためには社会の成熟が必要となる。「ただ働きたくないだけの人がそれを悪用するのではないか?」という声を凌駕するだけの良識ある人々の声が反映される必要があるからである。
解離に関する誤解を超えて

以上をまとめるならば、解離に対する誤解の原因は以下のいくつかの項目に整理することが出来よう。
1. それが疾病利得を伴うものとの疑い(精神分析の強い影響)。
2. 心が複数存在するという事そのものへの信じがたさ

その結果として冒頭のクライエントのような体験が生じたと考えることが出来よう。ここで誤解を避けるために筆者自身の立場を明らかにしておこう。私は精神疾患において「疾病利得」が存在しないという立場とは異なる。私はおそらく疾病利得と呼ばれるものはあらゆる疾患に関与していると考える。寒い朝学校に行くのが少し億劫な時、熱を出して休みの電話を入れて温かい布団にいることでどこか安心した部分を感じる人はいるだろう。私たちが体験するあらゆることに何らかのトレードオフ、差し引きが存在する以上、疾病利得は必ず存在する。問題はそれが主たる原因で精神、身体症状が出るという私たちが持ちがちな考えはどこまで信憑性があるか、という事だ。そしてトラウマ神経症の概念が成立するまでにかかった途方もない年月を考える場合、「病気ではなくてワガママだ」という事がいかに私たちにとって気軽で容易なのか、という事である。
すでに論じたように、かつてビスマルク政権が事故による精神的な後遺症にも賠償を与える法律を成立させたことで大論争が生じ、賠償を求めて症状を示す患者が急増することへの懸念が高まったが、実際には事故保険請求で精神症状が問題となる事例は12パーセントに過ぎなかったという歴史がある。歴史が示しているのは、疾病利得が存在しないことではなく、それがいかに過大評価されがちであるかという事である。そしてその結果として解離性障害、転換性障害全体があたかも詐病や疾病利得を求めて誇張された症状の表し方をしているかのように、一律に見なされてしまうという傾向があり、おそらくその傾向は現代社会においては依然として生じているという事である。
一つの例として「心の傷は言ったもん勝ち」という著書を例にしてみよう。要するに現代社会は「心に傷を受けた」と言ってしまえば、あとはやりたい放題という状態であるという。そしてうつ病セクハラパワハラ医療裁判痴漢事件などを例にあげて、被害者が優遇されすぎてはいないか、と主張する。著者の主張は良識の範囲を出ないが、もしこれを誇張した形での声がもし蔓延した場合は、ドイツで一世紀前に起きた動きが形を変えて(望むべくは小規模な形で)これからも繰り返されていくことを暗示しているのではないだろうか。
  
解離の治療の将来に向けて

解離性障害がいかに誤解を受けているかについてに紙幅を取り過ぎてしまった感があるが、最後に本題とも言える治療論に触れたい。しかしその基本は実は解離性障害を呈する患者に対して誤解を排した向き合い方をするという事にその基本がある。その上で筆者が考えるのは以下の諸点である。
1.  「人格の統合すくなくとも治療の念頭に掲げない
解離性同一性障害は、それに対する治療的な情熱が空回りしてむしろ逆効果を生むこともある。その一つが統合を目指した治療の一部にみられる。すでにポリサイキズムについての論述の際に言ったとおり、私たちの常識にいかに反しようとも、複数の心が別個に、しかし関わり合いつつ存在するというのがDIDの患者を診て受ける偽らざる現実である。複数の心は時には常に対話をしながら物事を決断している様子が見られたり、まじりあってどちらかわからない状態を訴えたりする。人格Aが人格Bの口調や習慣を取り込むことがある。これらはしかし別々の心が存在することを否定するのではなく、それらが混同されたり、混線したりするという事情を示す。そして治療者はあたかも家族間の意見の相違や葛藤を軽減することを手助けする家族療法家のような役割を荷う。しかしその目的は家族が心を一つにする、という事とは程遠い。むしろお互いが互いの立場の違いを認めつつ平和共存することを目指すのである。解離性同一性障害の治癒の先にあるのは統合integration や融合 fusion であるという考え方は、DIDの再発見やそれの啓発に尽力した米国のいわば解離研究者の第一世代の人々が掲げた目標である。しかし現在の解離性障害の治療者はより現実的になり、統合や融合と言われた状態が現実にはいかにその達成が難しいかを感じるようになっている。時々統合が達成されたというケースの数少ない例が「統合した」という暗示を治療者側から受けた結果であるという事もありうる。するとそれは治療者の統合を達成したいという願望を患者が取り込んだ結果とならざるを得ない。それが治療の結果として自然と生じたものであれば全く問題はないであろうし、それはむしろ歓迎すべき結果と言えるだろう。ただそれに向かって突き進む治療態度が患者にとって必ずしも助けになるとは限らない。