タイプ1の来談者のもう一つの種類は、自らを省み、失敗の原因を自分自身に求めることで人生を立て直していくかもしれない。その中でおそらくある種の洞察を得るとしたら、それはおそらく「自分は他者に対してこのような振る舞いをしていたことで、あの様な気持ちにさせてしまっていた」「相手の気持ちを思いやることが大切だ」という形をとるであろう。そしてそれを獲得することは、心理療法的なかかわりを通して促進されるかもしれない。彼らは自己中心的な振る舞いを反省し、他者の気持ちになり、他者を評価し、力を与えることを重視するかもしれない。
さてここで考えてみよう。タイプ1の「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察はどの程度本物だろうか? そもそも「相手の気持ちを思いやれない」原因としては二つの可能性がある。一つはその相手と類似の体験を自らが持っていないために想像力が働かない場合であり、もう一つは相手の立場を思いやれる想像力が最初から欠如している場合である。そしておそらく治療的な介入や自己省察により変化できる余地があるのは、前者の方だけだろう。後者はその人が生来持っている感受性や共感性の問題が大きく関与しているであろうからだ。
ある高名な医師が次の様な述懐をしているのを読んだことがある。(記憶を辿るだけのために、詳細は違っているかもしれない。)
「自分は老境になるまで入院を必要とするような身体疾患にかかったことがなかった。しかしかなり高齢になってようやくそれを体験することで、初めて患者の気持ちが本当にわかった気がする。」
かなり専制君主的な振る舞いで知られていたこの医師は、病者の立場に身を置くことで、初めて「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察を深めることが出来たのであろうし、そこに変化の余地があったということになろう。ただしもちろんこの医師が感じていたであろう自分自身の変化が、どの程度実際の態度の変化に現れていたかは分からないが。
もともと想像力に欠けたタイプ1の来談者も「相手を思いやるべきである」という洞察を獲得するかもしれない。たとえば彼の自己愛的な振る舞いが部下や同僚の造反を誘い、仕事を追われた場合を考える。彼は「私が彼らに恨みを持たれている可能性について思いが至らなかった」という教訓は得るかもしれない。しかしそれは今後の処世術の一つとして組み込まれては行くものの、部下の心の痛みを察してのものではないだろう。だからこれは「教訓」というよりは学習と考えた方がいい。認知行動療法的にはこれはアリであろうが、力動的精神療法を旨とする治療者にはこれは「洞察」とは呼べないものと判断されても仕方がないであろう。
次にタイプ2の自己愛の病理について考えてみよう。このタイプの来談者は自尊心が低く、おそらく養育環境において自らの自己愛を支え、育ててもらう機会を与えられず、そのために自分に自信が持てず、安定した確かな自己イメージを持てないでいる人々と理解される。タイプ1の患者さんとは異なり、人間関係を営むうえで生じてくる様々な問題について自分の責任と感じる傾向にあろう。おそらく自らを省みることについてはむしろ過剰と言ってもいい。Kohut が考えたように、治療者は来談者に対して自己対象機能を果たす役割を通して、来談者自らが自己対象機能を獲得していくことになる。その意味で治療者の役割は極めて大きいということになる。そしてその意味では治療関係は本人の精神的な健全さを保つためにも大きな役割を果たし、患者は治療関係を維持することに力を注ぐことになるだろう。その意味でタイプ2の患者さんが治療が中断する可能性は、タイプ1の患者さんに比べてはるかに低いものと考えられる。実際に治療者の果たす自己対象機能はある意味では患者の人生の維持にとって大きな意味を持ち続けるために、治療関係はむしろ長期に及ぶ可能性がある。