さてDMNとTPNとの関係で理解しておかなくてはならないことがある。それは両者は同時に興奮はしない、つまりシーソーの関係であるということから話を進める。呼吸に意識を集中することでTPNを高めることはDMNを抑えることになる。つまりMで行っていることは、あたかもTPNをなるべく保つことでDMNを抑えるという作業ということになる。あたかもDMNが何か悪者であるかのような印象を受ける。そして確かに瞑想の本には、DMNが過去の嫌なことをぼーっと考えてしまうクヨクヨ思考として説明され、DMNが過剰に働くことは精神衛生上よくないという印象を受ける。しかし果たしてそうなのだろうか? これをしていない時間、つまり注意を向けているTPNの時間を増やしなさい。そうしたらシーソーのようにワンダリングを抑制し、DLPFCも海馬も厚くなり、扁桃核が小さくなりますよ、という話らしいのだ。しかしそれほどマインドワンダリングはいけないことなのだろうか? 例えば創造性について考えよう。自由連想でもいい。これはおそらくワンダリングからしか生じないのだ。マインドワンダリングは、言わば意識的な活動の力をふと緩めること。無意識に身をゆだねること。その状態で初めてできることがある。
余談だが、私はネクタイの結び方が時々わからなくなる。まあネクタイはいつも持ち歩いていても、実際に締めるのは年に1回か2回だから忘れても仕方がないが、問題はどうやって締めるのかを思い出そうとすると、かえって締められなくなることだ。何も考えないようにして手を動かすと自然と締められる。実は漢字もとたんに書けなくなる。何も考えないようにして「瞑想」、などと書くとする。自然に書けるときはいい。ところが最初の「目」偏あたりで詰まると、もう先に行けない。だからしばらく考えないようにして、一気にもう一度書いてみると書けるようになっている。これはワンダリングの一つの働き方だ。意識するとできなくなることはこのように多い。それにだ! 私たちはある種の意識的な活動、TPN的な活動を結構しているものだ。私がこうやって文章を書いている時も、数秒~数十秒の間集中して、つまりTPNを発揮して文字を打ち込み、それからコーヒーを一口飲む。たちまちワンダリングに逆戻り。これを繰り返しているのだ。半分はTPN,半分はリラックス。つまりいつでもやっていることなのに、どうしてマインドフル瞑想が有効なのだろう? どうしてそれだけで、いつもは肥大することのないDLPFCが肥大するのだろうか? それと呼吸との組み合わせが有効なのか? よくわからない。今一つ分からないのは、TPNは、意識の集中によるストレスとも関連があるということだ。あることに集中することは、交感神経刺激にもなり、ストレスホルモンであるコルチゾールも分泌し、海馬を小さくするはずである。ところが逆にマインドフルネスでは、海馬は大きく、扁桃核は小さくなるとされる。これはどういうことだろうか?
もう一つデフォルト擁護説を提示しよう。以前に書評をしたゲオルク・ノルトフ (著), 高橋 洋 (翻訳) 「脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る」(白揚社 2016年) という本があった。そこに出てきたのが、安静時活動という概念だが、これなどまさにデフォルトなのだ。ノルトフの本では、DMNは悪者ではなく、むしろ脳の活動の基本として扱われる。それが「安静時活動resting-state
activity」だという。それが「デフォルトモードネットワーク」の活動に対応するわけだが、このDMNはアルツハイマー病においてその活動が最初に低下する部位としても知られるともいう。ということは認知症ではこの大事な部分、ポカンとする部分がかえって障害されているというわけだ。ところでこの安静時活動の際に活躍するというのが、正中線領域(大脳皮質正中内部皮質構造、CMS)というのだが、ここでDMNに活躍する部位を思い出そう。そう、「扁桃体、海馬、後部帯状皮質(PCC)、内側前頭前野(mPFC)」の4つだった。つまり両者は一致するのである。
この部分の活動についてはいろいろ書いてあるが、それは自己に特定的な刺激に特に対応する。また脳の一部でしか処理されていない情報は無意識にとどまるが、それが脳全体に広がる際に意識が生まれる。そしてその際ゲートキーパーの役割を果たすのが、前頭前野・頭頂野であるという。さらにこの本には興味深い記載がある。「うつ病においては自己焦点化や身体焦点化が高まり、同時に環境焦点化の減退が見られる。」つまり自分の自己意識や身体についての意識が過剰に高まる一方で、外界からの情報の処理が低下しているのだ。
<以下、あまりに複雑なので省略>
<以下、あまりに複雑なので省略>