2016年11月3日木曜日

退行 推敲 ④

松木邦裕の見解
ここで松木邦裕の退行に関する論考に触れたい。(松木邦裕(2015) 精神分析の一語 第8回 退行 (精神療法 41.5.p743753) 彼は精神分析の中でも退行概念を無視しているのが、英国クライン派であるという。クライン自身は妄想-分裂ポジションへの退行、前性器段階の退行、などの考え方をしているが、その後継者たちには、明らかに退行を論じない立場をとっている人たちもいるという。そしてBion, Wの次の言葉を引用する。「ウィニコットは、患者には退行する必要があるという。クラインは患者を退行させてはならないという。患者は退行すると私は言う。」(Bion,1960 cogitation, Karnac Book, London)そして松木は自らの退行理論を述べる前に、Menninger, K. Balint, M, Winnicott, D3名の分析家の退行理論をまとめる。この中で松木は Balint の退行理論を比較的単純なものとしてとらえている。Balint にとって退行とは「すべてが原初的愛の状態に近づこうとする試み」であるという。
 ところで松木が退行についての考察を進めた経緯が書かれているが、非常に興味深い。彼は1994年に分析研究誌に掲載された「退行について―その批判的討論」がいかに難産だったかを、当時の分析研究の編集委員会の内情なども示しつつ語る。要するに、彼の論文の最初のタイトル「退行という概念はいまだ精神分析的治療に必要なのだろうか?」がラジカルすぎて、物議をかもしたというのだ。彼の趣旨は、退行は一者心理学的で、しかも過去志向である。だから幼児帰りした母親の面倒を見る、ということになってしまう。しかし転移なら二者心理学的で、未来志向である。そしてそのような視点は、Balint にはあまりなく、彼が退行を重視し過ぎたのに比べて、Winnicott は転移の視点を入れている点で、評価に値する、とする。
その上で松木が問うのは、退行という概念が現代の精神分析においてはたして価値を依然として持ちうるのか、という点である。


治療への応用可能性について-筆者の考え

ここで筆者の考える退行の概念について論じたい。退行の概念は、その意義を認めるのであれば、精神療法への応用において最も重要となろう。松木(2015)の指摘するとおり、退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。
 ただしここで退行が明白な形では生じない転移関係もありうるという点についても指摘しておきたい。極端な例を挙げるならば、治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているだけなので、怖い父親のように思える様になり、治療者はそれを解釈した、という場合はどうだろう? これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、このままの治療関係ではどこにも着地点が見つからないのではないか? なぜなら治療のある時点で患者が「先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるような関係性の成立は必須となるからである。そしてそこで成立しているのはある種の親しみと安心感、リラックスした状態の成立を意味し、それを表現する用語としては結局「退行した状態」が当たらずとも遠からずということになる。ただしそれはBalint の分類では、良性の退行と分類すべきものということが出来る。
治療が促進するときに治療者が漠然と抱いているのは、治療者患者の双方にとって安心感が生まれ、患者にとっては自分の感情やファンタジーの表現が危険ではなく、受容されるという感覚が生まれることである。ところが問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしれそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味で私が提案するのは、新しい「退行」の概念であり、そこでは幾つかのことが行われる。
(特に治療者に対するものを含む)感情やファンタジーの表出が安心して行われる状況の成立すること。実はこれは土居の「甘え」が生じる環境と言い換えてもいい。
 結論として退行の概念は以下の点を留意しつつ注意深く用いることで、治療的意義を保持するというのが筆者の考えである。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、あくまでもそれは関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。退行とはあくまで、臨床的な現象なのだ。
第二には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が実際には体験したことがない状態でありうる。その場合に患者は一種の嗜癖に近い状態を起こし、治療者との依存関係を解消することにきわめて大きな抵抗を示し、治療は膠着状態に陥るであろう。
ここで棚上げにしておいた、Winnicott Balint の争点、すなわち悪性の退行は治療者のせいで起きるのか、それとも患者に内在する傾向なのか、という点について申し述べたい。基本的には患者に依拠すると言いたい。悪性の退行はBPDの病理と深い関連がある。「他人が去ることへの死に物狂いの抵抗」というDSMの診断基準が示す通り、依存がそこからの「新しい出発」に結びつかないという例が、見受けられる。


良性の退行は土居の甘えの理論のように、治療に不可欠といえるが、問題は今後悪性の退行を嗜癖の観点から、力動学的、および生物学的にとらえなおすことと考える。(このままでは終われないな。)