2016年8月28日日曜日

推敲 13 ③

食べることのハイ

食に伴うハイは、精神医学的に極めてなじみの深い現象である。ただしこれを本当にハイと呼ぶべきかについては議論の余地があるであろう。
いわゆるブリミア(神経性過食症) の人は、過食するものとして、たいていは自分にとって好きで口当たりが良いと感じる食料品を選ぶ。時には食べた後のこと、すなわち嘔吐する際のしやすさということも、食品を選ぶ根拠となる。それこそ菓子パンを20個を買ってきて、家で平らげる、というようなことが起きる。たいていは近くのコンビニで買うが、さすがにそれを頻回にやると顔を覚えられるので、遠出をしてあまりなじみのないコンビニを使ったり、数個ずつ分けて購入したりする。
家に帰ると誰にも見られず、一人で過ごせる空間を確保し、買ってきた食品を一気に食べ始める。食べている最中は「時間が止まった感じ」を報告する人も多い。確かに報酬系は刺激されている状態ではあるが、心地よいのか、ハイなのか、と問うた場合、答えは少し微妙になる。もちろん食べ始めた時から自己嫌悪やうしろめたさはすでに起き始めていることが多い。食べている姿は誰にも見せられないと感じ、こそこそと隠れるようになるしかない。家族と同居しているならば、それだけ買い込んで家に持ち込んでいるところから隠さなくてはならない。それだけの食べ物を一気に摂取する人は、その後に吐くという行為が伴う。彼女たちがあれほど恐れている体重の増加を避けるためには、トイレに駆け込むタイミングを見計らわなくてはならない。この嘔吐という行為も強烈に自己嫌悪を起こすプロセスだ。
   (中略)
 
この一連のプロセスを彼女たちは大いなる苦しみを持って行う。死んでしまいたいと思う気持ちもわからないではない。食べることもまた例の not liking, but wanting (気持ちはよくないがやめられない)が当てはまるのであろう。
しかし他方では「ダイエットハイ」という言葉もある。つまり食べないことでハイになる場合もある、ということだ。これは絶食して30時間以上たつと、ストレスホルモンのひとつであるCRFという物質が視床下部から分泌され、それが結果的に、ランナーズハイのところで出てきた、βエンドルフィンを分泌させるということらしい。ことらしい、というのはこの情報、ネットにかかれてはいるが、出典も明らかではないからだ。そもそもストレスに関連するホルモン、例えばCRF, ACTH,コルチゾールなどが脳において及ぼす影響は多岐にわかり、分かっていないことばかりということらしい。疲れても眠れないのはACTHのせい、とかいう話も聞いたことがあるが、うろ覚えだ。本を書こうとしている人間としては、こんなことでは困る。とはいえ、何も専門家のための本を書いているのではない。私に言えるのは次のようなことだ。

一般にあらゆるストレスがハイに関係している可能性があるといってよい。ストレスを感じると、視床下部からCRHという物質が出る。体がストレスに反応するための臨戦態勢を取る最初の反応だ。するとすぐ下にある下垂体からACTHが出て、それが副腎を刺激してコルチゾールを出す。コルチゾールが多くなると、視床下部でCRHにネガティブフィードバックのループが機能してストップがかかる。そして、この複雑なメカニズムのどこかに、ハイになる要因がある。それはCRH(CRF)かも知れない。しかしコルチゾールの分泌もハイに関係しているという記述も見られる。

首絞めハイ

信じられないだろうが、「首絞めゲーム」「気絶ゲーム」なるものが存在する。要するに首を絞めて脳を酸欠状態にしてハイを味わうというゲームである。英語圏ではChoking game (まさに「首絞めゲーム」, fainting game (失神ゲーム)などと呼ばれる。 欧米に限られると思いきや、わが国でも、例の「阿部定」でひところ話題になったこともある。(これについては少し後に述べよう。)米国やカナダでは、特に思春期の若者にこのゲームが蔓延し、不慮の事故死につながる例も数多く報告されている。彼らは、ドラッグよりも安全に、ハイになれるという。ユーチューブにも、遊び半分でやっている映像が見られる。友達同士で首を絞め合っては一瞬気絶することによる快感を味わう。
問題は脳の酸欠状態が一種のハイの状態を作り出す可能性があるということだが、もちろんそのようにはうまく行かず、また単にハイを得るだけの首絞めが、縊死に至ってしまうという場合が少なくないらしい。想像していただくとわかるだろう。快感を得るために、自室で自分で首を絞める。そのうち快感より先に失神が生じてしまう場合も十分ありうる。当然手の力が緩み、首の緩むのを期待する。しかしひも自体が絡まったり緩んでくれなかったら・・・・・、後は死を待つのみだ。実際に若者が自殺を意図したのか、あるいは単にハイを求めていたのかが、検死でもわかりにくい場合も少なくない。
 首絞めハイの世界は奥が深く、様々なバリエーションが存在するが、ひとつには、そこに性的な快感が伴うかどうかという違いがあるという。そうである場合も、そうでない場合もあるのだ。
 巷でよく知られる阿部定事件。これにも首締めによるハイが関係していたことは、あまり知られていない。
 阿部定事件は、1936年に仲居であった阿部定が同年5東京市荒川区尾久待合で、情事の最中に愛人の男性の首を絞めて殺害し、局部を切り取っ逃走
事件である。その事件が猟奇的であるため、世間の耳目を集めた。性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年520)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。以下は文献の引用。
 1936(昭和11年)516の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチン(睡眠薬)を購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれおまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している・・・・。
前坂俊之(編)『阿部定手記』 中公文庫、1998
伊佐 千尋 () 『阿部定事件―愛と性の果てに」 新風舎文庫 2005