2013年7月6日土曜日

こんなの書いたなあ(3)

そのまえに、私が司会をする「関係精神療法のセミナー」(7月21日)の告知である。








児童心理 200710月号 子どものネガティブな感情にどう向き合うか 金子書房


怒りが発散されるとき、暴発するとき     

はじめに-「怒りは抑圧され、発散される」という常識

この「抑圧された感情が発散されるとき」というタイトルは編集部からいただいたものであるが、感情一般に関する私たちの日常的な理解をうまく表現している。感情は実際に「抑えられ溜まったものが、ついに爆発する」という性質を示すことが多い。
この小論で私は主として怒りの感情について論じたいが、怒りは特にこのようなイメージで捉えられることが多い。従来日本語には「堪忍袋の緒が切れる」という表現がある。また昨今は「キレる」という言葉が流行っている。これらは奇しくも「きれる」という表現を共有するが、そこには「はりつめる」「解き放たれる」「爆発する」といった運動のニュアンスが伴う。
しかし本誌の怒りに関する特集(児童心理、「怒りをコントロールできない子」、2006年9月号)で遠藤(2006)も指摘している通り(1)、「きれる」にも二つの異なる状況がある。すなわち常に「ムカツいて」いる状態で生じる「常態的怒り」と、怒りをほとんど示さない子供が突然見せる「突発的怒り」であるが、これらはある意味では正反対の性質を有していると見ていい。このように「きれる」という私たちの体験に近い表現さえも二種類に分類されてしまうほどに、人間の怒りという問題は多様であり、その性質は時には互いに矛盾した性質を示すのである。
怒り等の感情が抑圧され、発散されるという一般的で常識的な捉え方を、この小論では「抑圧―発散モデル」と呼んでおくことにする。そして私の役割は、このモデルが正しいかどうかを論じるのではなく、それがどのような場合に怒りを理解するための図式として妥当なのか、あるいはどこに限界があるのかについて少し整理することである。

ここで読者の問題意識を喚起する意味で、ある理屈を提示したい。
いわゆる「ガス抜き」ということが言われる。抑えられていた怒りが爆発することを防ぐためには、何らかの刺激を加えることで「ガス抜き」を図り、発散させる必要がある、という論法は時々耳にする。いかにも「抑圧―発散モデル」に沿った発想だ。新聞の見出しなどで、アジアの近隣の某大国に関して、「農民の反政府的な感情が非常に高まっているので、時々政府主導の小さな暴動を起こさせ、ガス抜きをすることで大事に至らぬようにしている」というような解説を読んだ方も多いだろう。
しかし果たしてこの「ガス抜き」の方法はうまくいくのだろうか? 農民の暴動の対応に苦慮している為政者としては、このモデルの信憑性は、それだけ切実な課題であろう。そしてもちろん同様の問題意識は、私たち自身が持っておかしくない。常に怒りの発露を求めているような青少年への対処を迫られる私たちが、どこまで判断を「抑圧―発散モデル」に委ねることができるかは重要な問題である。
本論文の結論を先取するわけではないが、その某大国でも中央政府の指導者の動きを見る限り、意図的で計画されたガス抜きを行っているようには思えない。それは徹底した弾圧を行うかと思えば、その時々の国際情勢により恣意的としか思えない方針の変換を図っているように見受けられる。
要するに「ガス抜き」に見られる「抑圧―発散モデル」は常には正しくはないことを人は経験的にすでに知っているのである。それは場合によっては非常にうまく行き、別の場合には逆効果を生む。つまり状況次第で正反対のアプローチが必要となるのである。とすれば青少年の怒りを目の当たりにする私たちはこのモデル以外にも別のものを必要としているのであろうか? まさにそれがこの詳論でも問われることになる。

(以下略)