私たちが体験する精神的な苦痛の本質的な部分は何か? それはすでに獲得したものの喪失のプロセスで体験されるものである。いいかえれば、これまでに味わった快楽の代償なのだ。もちろんそれ以外にも様々な不快や苦痛がある。身体的な痛みや病苦。空腹。これらの身体を基盤にした苦痛はここでは除外して考えよう。すると精神的な不快のかなりの部分は、私たちが実際に、あるいは空想上で喜びを持って獲得したものから派生しているのだ。
人はいったん獲得したものには、あっけないほどにすぐに慣れてしまい、それが当たり前になってしまう。すると今度はそれを失うことが苦痛になる。もし獲得したものに当たり前にならない、ということが可能だとしたら、それを失うときの苦痛もごく少なくてすむ。要するに「これは何かの幻なのだ」とか「ダメもとなんだ」と自らにつぶやき続ければいいのだが、しかしそれが現実に起きることはまずない。それは通常は快を勝手に味わってしまう脳をコントロールできないからである。ただし物事の獲得に伴う快感は、一瞬のうちに生じるわけではない。おそらく脳が各瞬間に味わう快には上限がある。針が振り切れてしまうのだろう。(同様に苦痛にも限度がある。たいていは針が振り切れて以降は、意識が薄れていくものである。)そこで快の大部分を味わうためには、数時間~数日という時間が必要になる。ということは、喜びを感じた瞬間というのは、その獲得の事実に十分慣れてはいず、したがって失うものも多くはない。ノーベル賞を獲得したと告げられた科学者が、その一分後に誤報だと知らされても、おそらくそこにさほどの苦痛や落胆はあまりないだろう。それは快のホンの一部しか味わっていないからだ。しかし一昼夜過ぎてようやくうれしさに慣れてきたときに誤報だとわかる と …… 悲劇以外の何物でもない。こうして「ダメもと」の瞬間はたちまちすぎてしまい、獲得したことがすぐに当たり前になる。その瞬間から失うことへの不安や苦痛が始まる可能性がある。
この章を準備しているのは2012年の夏であるが、先日のロンドンオリンピックのメダル獲得選手の祝賀パレードで、水泳の北島康介選手は少しさびしそうだった。最後には銀メダルも取れたのに、それを首に下げてもしょげているのだ。それは彼が過去の二大会で金メダルを4つも獲得しているからである。すると今回も、という自分自身の欲が出る。周囲も期待する。「メダルは取って当たり前」、になる。すると胸に銀メダルを下げることが出来ても、彼には苦痛を伴う喪失体験になってしまうのだ。そして同様のことは他のメダリストたちも多かれ少なかれ体験するのである。
人生の上での「金メダル」を取ること、成功すること、それは嬉しいことだが、災いの元であるといっても過言ではない。将来の不幸をほぼ約束しているからだ。読者は思うかもしれない。「ダメもと」の感覚を維持する秘策はないのか?獲得したものを偶然の賜物、と思い続けていれば、それがなくなっても痛みを感じないのではないか? もちろんそうである。でもそれはある意味では人生を楽しまない、ということになってしまう。それは普通の人間には起きないことなのだ。楽しまないと決めても、脳はすでに楽しんでしまう…。ということでまた報酬系の話に繋がっていく。
報酬系と快、不快
報酬系の働き方を思い出してみよう。レースに勝ち、金メダルを獲得したという時点で、ドーパミン作動性ニューロンのバースト信号はいやがおうでも生じる。トーン信号も上昇するはずだ。するとおそらくそれらの積分値が、将来失うものとして用意されることになる。まさに快を得た分不快を体験する。果たしてこれは避けられない運命なのだろうか? それを何とか防ぐことはできないのだろうか。
もう少しドーパミンニューロンの動きを探ってみる。ここで縦軸に示すのは、そのトーン信号のつよさである。するとある種の獲得を体験し、喜びを感じた時のドーパミンニューロンのトーンは、こんな風に描ける。一時的に上昇し、また下降するわけだ。
しかし話はこれでは終わらない。その先を時間軸上で追ってみると、普通はこんなことが起きている可能性が高い。
つまりこの曲線は、長い目で見たら、下のほうにも落ち込んでいる二双性なのである。ここでマイナスの部分に落ち込むのはなぜか。別に金メダルの一部がすり減って行くわけではない。しかし時間が経つにつれて、自分も金メダル当時の記録が出せなかったり、自分の記録が他の選手に更新されていったりするからだ。こうして金メダル選手としてのプライドが、少しずつ揺らいでいく。それに最初のころのドーパミン信号の上昇には、おそらく金メダルをもらったという事実だけでなく、それにより世間に騒がれ、周囲からちやほやされることの喜びも入っているだろう。しかしそのうち世間は新しいヒーローをもてはやすようになり、試合に出ても金メダリストとしてのプライドを保つような記録を出すことが出来ないということで少しずつこの喜びが目減りしていく。またいったんもらったメダルは誰かに奪われることはないが、将棋や囲碁などのタイトルは、次の年に奪われることで、今度は上向きの山の高さと同じ深さの谷(苦痛)を経験することになるのだ。この後半部分へのマイナス部分を伴わないドーパミンの上昇は普通あまり考えられないのだ。
ここで体験される回ないし不快は、それぞれ上向きないし下向きのカーブの積分値(面積)で表すことが出来る。そして獲得による快が喪失による不快にすべて変わった場合には、両方の面積は等しいことになる。
ドーパミンの二双性のカーブは想像上の獲得でも起きうる
さてここから少し複雑な話になるが、この種の二双性のカーブは、実は想像上の獲得に関しても生じるのだ。上に出したのは金メダルの例だが、メダルだったら直接て渡されておしまいである。しかし私たちが日常生活で体験する獲得とは、その予定、ないしはその可能性という形で与えられる場合が多い。私たちは「~を獲得できそうである」という場合、それを想像の中で先取りするものだ。そしてそれが第一の上向きのカーブとなって体験される。それが後に実際に獲得できれば満足であるし、期待に反して獲得できなければ、その期待の分だけの苦痛を味わう。
おそらく私たちが精神生活を営む上で一番いいのは、期待した分だけ獲得できるという生活である。たとえば狩猟生活を営んでいるなら、「今日の借りではうさぎを二羽くらいなら獲得できるだろう」と予想する。それでちょうど一家を支えることが出来る。実際に狩に出てウサギを二羽獲得できればそれでいい。満足して一日を終えることできるだろう。その時ドーパミンのカーブは基本的には一双性ということになる。後の失望によるマイナス部分がないからだ。しかしもし予想に反して一羽だけだったり、全く何も獲物がなかったら…。その分の失望や空腹による苦痛が待っている。下向きの二双目が待っているのだ。しかし仮に四羽採れたらそれでいいというわけでもないだろう。今度は次の日から、「明日も三羽、いや四羽取れるのではないか」という期待が高まり、それは大抵失望に終わるだろう。そしてその場合もカーブは二双性になり、これも苦痛なのだ。
実は金メダルの例でも類似のことは起きていたのだ。オリンピックに出場する時点で、金メダルの可能性を予測し、期待する。今回は内村航平選手が体操の具体的な種目ごとに、金メダルを獲得できる予想をテレビカメラの前で語っていた。彼は最終的に取れるであろう金メダルの数を明言はしなかったが、仮に三つ取れるつもりでいた場合には、一つだけだったり、無冠で終わった場合には、二双性のカーブの後半部分はそれだけ大きくなり、苦痛もそれだけ大きくなるのだ。おそらく私たちが精神生活を営む上で一番いいのは、期待した分だけ獲得できるという生活である。たとえば狩猟生活を営んでいるなら、「今日の借りではうさぎを二羽くらいなら獲得できるだろう」と予想する。それでちょうど一家を支えることが出来る。実際に狩に出てウサギを二羽獲得できればそれでいい。満足して一日を終えることできるだろう。その時ドーパミンのカーブは基本的には一双性ということになる。後の失望によるマイナス部分がないからだ。しかしもし予想に反して一羽だけだったり、全く何も獲物がなかったら…。その分の失望や空腹による苦痛が待っている。下向きの二双目が待っているのだ。しかし仮に四羽採れたらそれでいいというわけでもないだろう。今度は次の日から、「明日も三羽、いや四羽取れるのではないか」という期待が高まり、それは大抵失望に終わるだろう。そしてその場合もカーブは二双性になり、これも苦痛なのだ。
ドーパミンのカーブが二双性にならないことが精神の安定にとって大切であるとしたが、実はこれは私たちが日常生活で常に行なっていることである。報酬系の興奮とは、いわば私たちが一日を生きていく上で獲得するご褒美のようなものだ。報酬系が程良く刺激されることは、一日の生活が比較的心地よく送れることを意味する。私たちが仕事場や学校で時間を過ごす時、そこでの業務(勉強)や同僚(友達)との交流などを通じて、ある程度の楽しさを味わっているのがふつうである。いわばそれをあてにして日常を送っているようなところがある。もちろんあてにした分の報酬が得られる保証はなく、その多寡に応じてその日の気分が変わったりすることも多い。また一方で快の量が予想されれば、他方では苦痛分も予想される。これは日常生活を送る上で必然的に伴う苦痛であり、それを覚悟しつつ私たちは毎日を送っているわけだ。
一日の快の総計と不快の総計は、大体の予想は可能でも様々な条件によりその量が左右されるが、自分自身でコントロールすることのできる快もある。その典型は、ゲームやパチンコ、酒、食事等、遊興や飲食に関わることである。これに関しては私たちはあまり譲りたいと思わないものだ。否、頑強に固執するものである。(自分の生活習慣を考えるとよくわかる。)
それについて考えていくと、私たちの脳は、おそらく非常に精巧な計算を行なっていることに気がつく。それは一種の貸借対照表のようなものを作り上げていることになるのだ。それは例えば次のように働く。「今日は仕事を終えたらうちに帰ってビールを飲もう。確か冷蔵庫には缶ビールを二本冷やしているはずだ。」缶ビール二本、という量がとりあえずあなたを満足させる量であるなら、それを思い浮かべた時点で、ある種の満足が得られる。あなたが安心して帰宅できるのは、もうそのビール2本がすでに手中にあると思えているからだ。そしてそれはビールのことを考えていないときにも、常に脳の中に刻まれている。すると冷蔵庫を開けたときに、ビールが一本しか見当たらないときの失望もまた約束されているのである。
脳の中の貸借対照表においては、これを「貸し」に記入してあるだろう。その記入はかなり正確で、例えばそのビールの銘柄まで、冷えている温度さえも記入されているだろう。そしてあなたはそのビールを飲むということを忘れて寝てしまうという可能性はかなり小さい。気になったテレビの番組を見るのを忘れても、友人からのメールに返事をするのを怠ったとしても、缶ビール二本は消費される。それにより貸しが返されることで、最終的にバランスシートはプラスマイナスゼロになり、あなたはゆっくり床につくことができるだろう。(もちろんパチンコで遊ぶこと、気になっていた番組を見ることが、日中から何度も頭を掠め、それを想像上で実現することで喜びを得るほどに重要であったら、もちろんそれらについても、対照表に大書きされ、その遂行に特別注意が払われることになるだろう。)
同じことは「借り」についても言える。例えば友人にメールの返信をすることが苦痛で、かつ必ず行なわなくてはならないことであるとしたら、その労働を行なうことについてはもうあきらめて、ビールに手を伸ばす前に済ますかもしれないし、のどの渇きを癒してからの一仕事として取っておくかもしれない。こちらはその「借り」を返すことでとりあえずは心のバランスを元に戻すことができるのだ。これについてもバランスシートは正確である。もしこの苦痛な仕事を忘れていたとしても、「何か一仕事が残っていたはずだ・・・」という感覚を持つということでその「借り」記載をあなたに教えてくれる。それを行なうことなく一日を終えることにどこか後ろめたさを覚えるのは、いわばこの対照表からのアラームなのである。