一つだけ「断り書き」
ここから、私が授業で採用している私なりのWDの変法について書いてみたいが、その前に一つの disclaimer (断り書き)が必要だと思った。というのも先ほど「日本人はグループでは沈黙がちだ」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははグループで真っ先に沈黙するタイプであることを告白しなくてはならない。だから私の講義がひと段落したところで「では質問のある方?」と呼びかけて、シーンとされても、少しがっかりはするが、その気持ちはとてもよくわかるのだ。私がグループでの発言が苦手なのは生来の引っ込み思案が関係していると思う。思春期以降の私はかなりの恥ずかしがり屋で気弱である。パリ時代も、アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかくグループ状況では喋れなかった。もともと日本でもそうだったのに、外国で下手なフランス語や英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(そもそもディスカッションの理解がついていけないということもあったが。)
しかし他方では私は毎回授業のたびに「何とか発言が出来ないものか」ともがいていたことも確かである。言いたいことを紙に書いて用意していたりもしていた。しかし手を挙げる勇気がない事に常に不甲斐なさを感じていた。実はクラスからの帰りに「あー、また発言できなかった!悔しい!」と空を見上げることを何度も体験していたのである。このような思いがあるからこそ、私はこのWDの議論にことさら興味を覚えるのかもしれない。
ところでこのグループでしゃべれない、という問題に関しては、ひとつ面白い体験があった。それは留学先のメニンガー・クリニックでもったグループでの体験だった。グループ療法にも力を入れるメニンガーでは、一般市民にも開かれたさまざまなワークショップが企画され、年に何度か体験グループのセッションが持たれた。それもかなり本格的なもので、二日、ないしは三日連続で朝から力動的なグループの体験学習が何セッションも行われたりしたのである。私もおっかなびっくりでそのような体験グループに出てみたのであるが、そこでとても不思議な体験をした。20人、30人というそれこそほとんどが米国人で占められるグループに参加しても、発言することに不思議と抵抗がなかったのだ。
今から考えると、私は体験グループの状況を、精神分析の自由連想と同じにとらえていたからではないかと思う。私は当時個人セラピーや週4回の精神分析を受けていたが、そのような状況ではただ一人の相手に対して喋れないということはほとんどなかった。聴衆がたった一人なら緊張のしようがないではないか。私にとっての喋れない苦しさはグループ状況に限られていたのである。
ところが基本的には「何を言ってもいい」という力動的なグループ状況でも、私は分析の自由連想を行う時と同じ心持になったのである。何か言葉に詰まったら、そのことを言えばいいのである。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めてすべてを実況中継すればいい、と思えば、発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに体験グループは私が素(す)であることを許される場と感じられたのである。このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。