<承前>
つまりうまいフェイントは、自分の動きをコントロールでき、また相手の反応を正確に予測出来ることにより可能になる。微調整が出来るからうまくフェイントを成功させることが出来るわけである。こうして殴り合いごっこは、フェイントの応酬、磨き合いを行うことでお互いに自分自身と相手の予想の限界を確かめつつ行われ、それにより楽しく継続される。
結局じゃれ合いは楽しく予測誤差最小化のスキルを磨く絶好の機会(道具)であるということになる。
ここでいくつかの動物どうしの戯れについて映像をお見せできれば幸いであるが、論文ではそれは無理である。しかしそこで見られるのは、遊びは小さい子供とそれと比べようがない程強大で賢い母親との間のやりとりにも胚胎している。そこではお互いに攻撃と防御を交互に行っていても、母親は決して本気で子供を傷つけることがないように自分の行動を微調整出来ているのだ。
ある例では犬とヒヨコがお互いに信頼し合ってじゃれ合う様子が示されるが、ひよこは犬を信頼しきってその口に入るということまでやっている。そして犬はひよこを傷つけないように、口の開き加減などで高度の微調整が行われるのだ。つまりワンコの極めて高度のPEMを発揮して、自分をコントロールできているということを意味する。
ちなみに最近の自由エネルギー原理の理論では、「予測誤差最小化」だけでなく、「程よい予測誤差」(アソび、撓(たわ)み、揺らぎ、など)の必要性や重要性が唱えられてもいる。それは「遊び(アソび)がないところに創造性や進化はないことや、「程よい量の予測誤差」こそが快感であるという点を示している。
まとめ
精神療法における遊びの要素は、セラピストとクライエントが同じ体験を共有する「出会い」と考えられ、それを強力に支持しているのは愛着理論に基づいた精神分析家たちである。彼らはその出会いにおいては両者の脳の同期化が生じているということを強調する。脳の同期化はおそらく母子関係を通じて、さらには身体運動の、そして言葉によるじゃれ合いを通じて発揮される。(治療においてはその不足分が補充されるという意味を持つ。)脳科学的には、遊びは「予測誤差最小化」を磨き合うゲームであるといえる。
精神療法においても他愛のない楽しいおしゃべりは、実はじゃれ合いのように予測誤差の最小化のトレーニングとなり、患者と治療者のシンクロを促進する意味があるであろう。このように遊びによる治療には、発達論的、脳科学的な見地からも大きな可能性が秘められているのである。
治療者はクライエントと他愛のないおしゃべりをする能力をもっと磨かなくてはならないだろう。私の本稿の最初の提言に戻るならば、「遊び心はあらゆる治療に必要な要素ではないだろうか?」「精神療法は常にプレイセラピーである」はあながち間違ってはいないと考える。