支持療法・POSTは最強である
なぜ精神分析でなくて支持療法が最強なのだろうか。本来なら精神分析こそが最強である、と私は思いたい。しかし精神分析はあらゆる心理療法の源流であり、ある意味では旧約聖書的な存在であるために、かえってモーセの十戒により縛られ、力を削がれているからである。精神分析の力は間違いなくそれが主張する「治癒機序」の持つ強いメッセージ性であった。特に米国ではそれが精神分析家のみならず精神医学者をも数十年にもわたって夢中にさせ、その実証性を示すことへと向かわせた。しかしそれが必ずしも実を結ばなかったことから、そこから派生した様々な治療的介入の存在を私たちに気づかせ、それらの発展を促した。そしてそのいきつく先の一つは「多元論的な治療観」(クーパー、マクレオッド)であると理解している。そしてこの多元論的な治療観を反映したものが、支持的療法であり、それゆえに最終的であり最強なのだ。(もちろんメッセージ性を狙って多少なりとも「盛った」言い方をしているのだが。) 人は支持療法を一つのプロトコールを備えたある種の権威とみなすことに抵抗を示すかもしれない。しかし支持療法はある意味では「内容を欠いた」それ自身がコンテイナー的な概念なので、それに対する反論をも将来は取り込む素地を持っていることを忘れてはならない。支持療法は上書き、更新可能なのである。 精神分析の最大の特徴でありまた弱点は、そのモーセの十戒的なメッセージ性であると述べたが、その理論的な先鋭さ(必ずしも「治療的な先鋭さ」ではなく)は治癒機序をヒアアンドナウの転移の解釈と定め、それを精神分析的な治療の一つのプロトタイプとしたことである。それは理論的には鉄壁であり、また確かにそれに合致した治療関係が成立し、大きな変化を遂げる患者が存在するであろう。しかしその治療過程の切っ先の鋭さは、それ以外の技法を排除することにより保たれるような類のものである。そしてその結果として、人間を変えるポテンシャルを有するそれ以外の様々な介入は、「分析的でない」として除外される傾向にある。旧約聖書から入っている治療者たちは十戒に背くことの後ろめたさから「それ以外」の技法を用いることをためらう。 ギャバ―ドはその優れた論文「治癒機序を再考する」(Glenn O. Gabbard and Drew Westen (2003) Rethinking therapeutic action. Int J Psychoanal 84:823–841)の中で、様々な治癒機序をあげつつ、精神分析プロパーでは限られた手段しか用いることが出来ないことのディスアドバンテージを示しているようである。 彼はまず治癒機序としては二つのことを挙げる。それらは洞察を育てること fostering insight と作用機序の媒体としての関係性 relationship as vehicle of therapeutic action であり、これらは精神分析プロパーに関する議論であるとする。そして精神療法ではそれらに加えていくつかの 方略 strategy があるとして次の5つを挙げる。あたかも精神療法の方がこれらの二次的な作戦を自由に使えるという意味ではより広い治療的な介入を行えるような言い方をしているのが興味深い。もちろんギャバ―ドは、最初の二つが精神分析に限り、二次的方略は精神療法、という風にはっきり分かれているわけではないことのと釘を刺している。それらとは以下の通りだ。 1.変化についての明白な、あるいは非明示的な示唆 suggestion . 2. 役に立っていない信念 belief や問題行動や防衛への直面化。 3.患者の意識的な問題解決や決断の仕方へのアプローチ 4. 暴露 5.自己開示を含む介入