2024年2月13日火曜日

連載エッセイ 12 脱稿

 今回はこのエッセイの最終回であるが、テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載のタイトルは「脳科学と臨床心理」となっているが、それは私が研究者ではなく臨床家の立場から脳科学について語ることを目的としていた。というのも脳の話は人の心を理解する上で非常に役に立つからなのである。つまり私は純粋に脳科学に興味があるというよりは、それが「だから心ってこういう風に動くんだ!」という気付きを与えてくれることがとてもありがたく感じるのだ。だからこそ読者にそれを語りたくなるのである。

 しかし毎回脳の話をしながら、それが心理療法やカウンセリングの場面でどの様に応用すべきかについても論じることは容易ではない。あるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ上限の6000字に達してしまうのである。

 だからこの連載中、「タイトルと違って心理臨床について述べていないではないか!」という批判を常に覚悟していた。編集の方から特にその様なクレイムが来ているという話は聞いてはいないが、そのようなお叱りを受けたとしても当然である。そこでこの最終回は「臨床家にとっての脳科学とは何か?」という話題について論じることとした。(ちなみにここでいう臨床家には、患者やクライエントの話を聞く立場の医師や心理士等を広く指すことにする。)

 ただしこの問題についてのテーマも数限りなくあるため、3つのトピックに絞って論じることにする。


1.脳を知ることはクライエントの訴えをより深く知ることの助けとなる


 まず最初のトピックは、脳を知ることがクライエントの話を聞く姿勢に大きな影響を与えるという事である。私達は他人がある特殊な体験を持ったという話を聞く時、それをにわかには信じがたいと感じることも少なくない。臨床家なら多少覚悟をしているから、クライエントの語りを最初から疑って聞くことは少ないが、それでも「えっ、本当に?」という率直な反応を心のどこかでしていることが多い。

 どの様な例でもいいのだが、ここでは幻覚体験を取り上げよう。ある人が誰もいないはずの部屋の中で人の姿を見たと報告する。いわゆる幻視らしいが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿を見るはずなどないだろう」と考えがちだ。精神科の患者さんの話を聞くことの多い読者なら、このような話には慣れているだろうが、ここは予備知識のない人が家族から初めてその様な話を聞いたという状況を想定していただきたい。

 このような場合の反応としては、「ほんとに?気のせいじゃない?」と尋ねてみたくなるのではないか。あるいは「あなたの思い込みじゃないの?」と返すかもしれない。「最近少し疲れがたまっているんじゃないの?」もあるだろう。もし家族の誰かからその様な話を聞いた場合は、自分の家族が幻覚だか心霊現象だかを体験したと思いたくないという気持ちも働き、私達は一生懸命その様な話を否認しようとするのだ。

 あるいは部屋の中での人影ならまだしも、友人から「きのうの晩、近くの公園でUFOを見た」などという人の話を聞いたら、99%以上はそれをにわかには信じないという反応になるだろう。

 ここで私達の口から出る「気のせいじゃない?」とはどういう意味だろうか? それは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という意味だろう。また「思い込みじゃないの」という表現には、「自作自演」や「自己アピール」を疑っているというニュアンスが含まれるだろう。「人騒がせなことを言うな!」という苛立ちの気持ちも透けて見えるかもしれない。

 私達臨床家もまた程度の差こそあれクライエントの訴えを疑いの目で見やすいものだ。実際に自分も体験したという事なら話は全く別だが、その人の体験を想像することにかなりのエネルギーを費やす場合には、それを「思い込み」、「気のせい」という風に決めてかかる部分がどこかにある。精神科の臨床に携わる私自身も同じような傾向を自分の中に感じる。特にそのクライエントさんに何らかの理由で苦労し、共感の糸が切れかけている場合には、その傾向が強くなってしまう。

 この「症状は自作自演」という発想は、精神分析的な考えにも見られる。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。ただしフロイトは、「自作」していることに本人は気が付いていないとした点が大きく異なるのであるが。

 幻視の話にもどろう。実はおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して、当時一般的だった精神力動的な考えに異を唱えたという(Carter, et al, 2015))。彼は幻視は神経学的な症状、すなわち脳において実際に生じている異常であると考えたのだ。つまり幻視は自分の心が作り出したものではなく、てんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。
 この研究はその後も引き継がれ、その理論の信憑性は脳科学的な研究で再認されている。(Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.) そして最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患(精神科的、神経内科的な疾患に関わらず)で、ある共通した現象が見られることが分かったという。そもそも何かを視覚でとらえる際には、大脳皮質と視床の間で活発なやり取りが行われる。

目から入った視覚的な信号は大脳皮質の視覚野に入力されたのち、それが視床に送られて統合され、それを再び視覚野に送り返す。だから視覚体験に両者の情報交換は当然である。
 ところが幻視においても、直接の視覚情報は目から入っていないにもかかわらず、大脳皮質の視覚野が刺激されて視床との間の交信の高まりが見られるというのだ。つまり幻視の際も実際の視覚体験も脳のレベルでは同じことが生じるのであり、主観的には両者を区別できないことになる。だから幻覚により誰もいない部屋で人の姿を「見た」という体験は、とても「気のせい」のレベルの体験ではない。

 私がトレーニングの土台としたのは精神分析理論だが、そこにある基本的な考え方は「クライエントの直接の訴えの背後に目を向ける」というものである。確かにクライエントの訴えは心の奥底でうごめいているものに対する様々な加工が加えられて表に現れる。クライエントの言葉による体験の描写を額面通りに受け止めるだけでは臨床家として失格であろう。しかしだからこそ時にはクライエントの言葉をそのまま受け止めることも大切なのだ。そのことをフロイトも、こう言ったという。

「時には葉巻はただの葉巻でしかない。Sometimes, a cigar is just a cigar,” 」

つまり夢や連想に出てくる葉巻は常にペニスを象徴しているというわけではなく、見えたままの葉巻そのものかも知れないだという意味だ。

 この連載ではいくつかの精神疾患についても脳科学の文脈で論じた。それらは解離性障害、薬物嗜癖、行動嗜癖、トラウマ関連障害等であった。それらの脳科学の知見が教えてくれることは大抵は次のことだ。

 患者さんの訴えはその人の「気のせい」や「自己アピール」だけでは説明できないことばかりなのである(たとえそれらの要素が混じっているとしても、と一応断っておこう)。つまり患者さんが描写する彼らの体験は一見意味をなさず、それは本人の気のせいではないか、自作自演ではないか、という気持ちを起こさせるが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その訴えの深刻さをより理解できるようになることが実に多いということである。


2.精神療法とは、療法家とクライエントの脳の「相互ディープラーニング」である

 

 第二点は、脳科学的な知見が、私達の治療者としての心構えにどのようなインパクトを与えるのかについて述べたい。

 私がこの連載の第2~4回で脳科学の話とニューラルネットワークの話を同時並行で始めたのは、私たちの脳科学的な知見がコンピューターサイエンス、特にいわゆる「生成AI」との間に類似関係があるという点を強調したかったからである。

 そもそも1950年代に考え出されたニューラルネットワークモデルの原型とも言えるパーセプトロンは、神経細胞と神経線維の連結を模して作られたものだった。それは入力層と隠れ層、出力層の三層構造をなし、それぞれに10個程度の神経細胞を模した素子を配置するといった構造を持っていた。そして当初は隠れ層や素子の数を増やしてその性能を上げていくことに力が注がれた。それはコンピューターの性能の向上とともに加速度的に複雑になり、隠れ層も1000層にもなり、素子も数千を越えるようになったという。

 しかしそれでもニューラルネットワークが脳に比肩するような性能を得るようになることを想像する人は少なかった。なぜならほんの十数年前のコンピューターは、とても人との自然な会話など成り立たなかったからだ。その頃の対話型のロボットの会話能力など惨憺たるものだったことをよく覚えている。だからアルファ碁が2015年に韓国の囲碁のトップ棋士を軽く打ち負かし、最近ではChatGTPが人と変わらぬ文章を構成するようになったことは、多くの人にとって驚きだった。

 しかしそのような進歩を遂げたことで見えてきたのは、ディープラーニングが人間の活動に模した学習方法をとったことが功を奏したからである。

 ディープラーニングが高度の知能を獲得したのは、間断のない自己学習(いわゆる強化学習 reinforcement learning )を行なわせたことによる。それこそアルファー碁なら自分自身と高速で毎日何万、何十万(あるいはもっと多いかもしれない)と対局を行った結果、驚異的な進化を遂げたのである。

 これがなぜ人間の活動を模しているかと言えば、人間の中枢神経そのものが巨大なニューラルネットワークであり、出生直後から、あるいは胎児のころから強化学習をたった一人で、あるいは環境を相手に行うからだ。人間は知覚を通して伝えられる様々な刺激のインプットに対して体の動きや言語表現というアウトプットを行い、それは常に快や不快というファクターを媒介としてフィードバックされるという、まさに自己学習のシステムである。ただその自己学習のスピードがディープラーニングに比べてはるかに遅いだけである。

 このように考えれば、人の活動は環境とのかかわり(そしておそらく精神内界とのかかわりも含め)はことごとくディープラーニングであることがわかる。そしてもちろん対人交流は相互ディープラーニングという事になる。精神療法で○○療法、××療法等の形式に従って行う治療も、結局は相互のディープラーニングのホンの一つの形式に過ぎないという事が分かるだろう。そうなるとそれぞれの学派が定めているプロトコールやそこでの「お作法」を頑なに守る意味も薄れてくるだろう。

 もう少し説明しよう。実際には〇〇療法を行う場合にも、それらの治療的な関りの背景として、様々な情動的なものがクライエントと治療者の間に動いている。クライエントは治療者に対して「この人は信用できるのだろうか?」「このセッションはそもそも時間をかけて通い、高いお金を払って受ける価値はあるのだろうか?」等の様々な気持ちを抱く。次のセッションのアポイントメントを取りながらも、「もうそろそろやめたいと思うが、どうやって切り出したらいいだろうか?」と考えているかもしれない。あるいは「○○療法は結局効果がなかったが、最初からあまり過剰な期待をするべきではなかった」という一種の社会勉強の機会になっただけかもしれない。

 また逆に「○○療法は実質的に意味ある形では行われなかったけれど、担当の先生の誠実な人柄に触れて、また先生に認められたような気がして自信が付いた」という体験をクライエントは持ったかも知れない。そしてそれらのすべての体験が扱われるべきなのである。

  治療関係が相互のディープラーニングであるという事を突き詰めて考えるならば、どのような関係も実は裸の人間同士の認知的、情緒的なふれあいであるという事だ。それは胎児の頃から行なっている強化学習の続きということになる。治療構造や治療契約、治療上のお作法は仮に身にまとっている服のようなものであり、それはお互いを守るものであってもお互いの情緒的なふれあいをいたずらに制限するものではないという事だ。そしてここが肝心なのだが、治療者側もまたディープラーニングを通じて学習し、変わっていくべきものなのである。よいディープラーニングはそれが生じることで互いにより広い範囲の脳を刺激する事であり、それが治療の一つの目標とも言えるのだ。


3.脳科学が示す非決定論的な心の世界


 最後に脳科学的に理解された心の最も基本的な特徴、すなわち非決定論的な性質が臨床家に何を促すかについて述べておこう。ちなみにこの点については、連載第4回の「脳の表面では神経ダーウィニズムが支配する」で述べたことにもつながる。脳で起きていることは無数の玉突き現象のようなものであり、その意味で脳(ニューラルネットワーク)はいわゆる複雑系と理解すべきシステムである。そこは偶発性や非線形的な動きが支配する非決定論的な世界なのだ。
 ところが精神療法ではこのような脳科学的な知見は歓迎されない。精神療法には実に様々な学派や流派があるが、どれもその大半は決定論的、因果論的な心の捉え方をベースにしていると見ていい。つまり私たちの言動(言葉、振る舞い)にはなんらかの原因ないしは根拠があるという考えである。これはきわめて信憑性が疑わしいにもかかわらず、私たちが想像する以上に人の心を支配している。

 例えばあなたが昼休みにカフェテリアに赴き、入り口に並んでいるA定食とB定食のサンプルを眺めてみる。どちらもそれぞれに美味しそうで優劣つけがたいと思える。しかしいつまでも入り口でグズグズしているわけにもいかないので、「エイやっ」とB定食を選んだとしよう。そのような時はさすがに自分でも大した根拠はないと思っているのではないか。心の中でサイコロを転がした結果そうなったと考えるのが自然かもしれない。

 しかしもし心理学の大家がその話を聞いて、それからあなたの成育歴や最近の生活状況、そしてついでに両定食の具材について詳しく聞き取り、そこからの連想を語ってもらい、最後に厳かにこう言ったとしたらどうか?

「あなたがB定食を選んだ事にはたしかな理由があるようですね。」

 あなたはその心理学者の説を信じるかもしれない。なぜならあなたは自分の行動に自分でもすぐには気がつかない理由かが「ない」と断言する根拠もまた持ち合わせていないことに気付くであろうからだ。かくして因果論的な考えはこの脳科学の時代にも生き延びているのである。(このように書いている私も精神医学や精神分析の世界に進まなければ、明らかに因果論的な考えを持ち続けていたことは疑いない。)

 ところが実際の私たちの言動については、なんらかの原因が特定されない場合も少なくない。人の言動はその背後にある複雑な事象(記憶、思考、衝動などなど・・・・)の結果として生じる。ビリヤードの比喩で言えば、大抵はそこに数多くの玉が複雑にぶつかり合って最後の玉(つまり最後に現れた言動)が押されてポケットに落ちていく。つまり関与した数多くの玉がどれも少しずつ「原因」を担っているわけだ。
 もちろん格別大きな玉に衝かれて最後の玉がポケットに落ちる場合もあるが、その場合は私達はたいてい直観的にそれが分かる。ランチの定食の例にもどれば、B定食が自分の大好きなハンバークだったなら、そちらを選ぶという行動にはかなり明確な理由があったことになるし、普通はそれを自覚する。しかし私達の言動の理由が直感的には浮かばない場合には、相当複雑な玉突き現象が起きていたことになるのだ。
 しかしそれでも私たちは他人や自分の言動には「原因がある」(先ほどの比喩では最後の玉に直接インパクトを与えてきた一つの玉がある)と考える方向に傾きやすい。たとえそれが不明でも、自分が知らない何かの原因が影響していると考えやすい。そしてそれには決定的な理由があるのだ。不安のせいである。原因が分からない出来事に対して私たちは不安や不全感を覚えるという宿命を負っているのだ。それは私たちが受肉している(現実を生きている)からだと言える。

 例えばあなたが朝起きて体全体のけだるさを感じるとしよう。「何かの病気かな?」とちょっと不安になるかも知れない。事実それは重篤な病気の前触れかも知れないのだ。しかし「ああ、昨日の夜飲みすぎたせいだ。一種の二日酔いなんだ」とわかると少し落ち着くだろう。不明な出来事に理由が見つかると私たちはこうして安心するのだ。そしてとりあえずは「~のせいだろう」と考えて心をいったん落ち着かせるのである。すぐに思い浮かべられなくても、「季節のせいだろう」とか「ちょっと風邪をひいたかな」とか、場合によっては「気のせいだろう」となんらかの原因を心に「仮置き」するのだ。

 その仮置きされる原因の最大のものの一つは、その言動の主が「自分がそう思い込んでいるのだ」というものであろう。実は「気のせい」というのもこれに入る。自分が勝手にそう思い込んでいるだけだ、本当はけだるさなどないのだ、と思うことが出来れば、一番スッキリと解決するのだ。あるいは何となくB定食を選んだ後でも、人に理由を聞かれればあなたは結構それらしい理由を作り出すものである。(このことについては、本連載8回目の「左右脳問題」で左脳の習性として述べたとおりである。)

 しかし私達に本当に自由意志というものが存在し、自分の言動を合理的に決定しているのであろうか? ここが問題なのである。この連載の第5回目で見た脳科学的な心の在り方の原則を思い出していただきたい。そこでは脳科学的には、意識はあくまでも「随伴現象」であるということを述べた。つまり脳が先で、意識はそれによって引き起こされるのだ。私達の主体性や自由意志の感覚でさえも、脳によりそう思い込まされているのである。その回から少し引用しよう。

 

「随伴現象説 epiphenomenalism」とは、心は脳の随伴現象、すなわち脳における現象の結果として生じる考えだ。 (中略) しかしこの考えに対しては、次のような質問を受けるかもしれない。

「心が自由意志を用いて『こうしよう!』と思ったら、脳がそれについてくる、という順番は考えられないのですか?つまり脳が心に随伴するという可能性です。」 

 たしかにこのような発想も成り立つかも知れない。これは上記の意味での随伴現象説と全く逆の現象の可能性を考える立場だ。そして一昔前なら私たちはその可能性を否定する根拠を持っていなかった。しかし現代の私たちは、この心→脳という方向性の因果関係は成立しないということを知ってしまっている。それがベンジャミン・リベットによって提起された「自由意志と0.5秒問題」なのである。そしてこの発見により、結局は「心は常に脳の変化の後についてくる」という事実を私たちは受け入れざるを得なくなったのである。つまり私たちが自由意思に従って何かを行ったとしても、その少なくとも0.5秒前に脳がその準備をしているということが明らかになっているのである。


  被検者にいつでも好きな瞬間に行動を起こしてもらう。例えば指を動かす、といったような簡単な動作でいい。そしてその瞬間を覚えていて報告してもらう。すると脳波計は常にその瞬間の0.5秒前に何らかの波形を検出する。このことをリベットは発見したのだ。そして純粋な意味での自由意志は存在しないと主張した。なぜならそれを発動した瞬間の0.5秒前に脳が「何か」という活動によりそれに先行しているからだ。敢えて言うならば自由意志を発動したのは脳自身、という事になる。しかし脳の中で何がどの様に作用して最初の波形が生まれたのかについては殆どブラックボックスであり、そこで生じたであろう複雑な玉突き現象をうかがい知ることは出来ない。

  このように考えるとフロイトの無意識の概念に基づく決定論は、案外真相に近いことになる。こんなところでまたフロイトに出会おうとはあまり思っていなかった。しかし現代的な意味での無意識はもはや「脳」や「ニューラルネットワーク」と呼び変えたほうがいいほどに複雑で込み入ったシステムであり、そこで意識に上らない部分以外のすべてと捉え直すことが出来る。それはフロイトが概念化した簡素な無意識、すなわち夢の断片や自由連想からその動きを跡付けることが出来るような無意識とは異なる。脳=無意識は容易にはその動きを知ることが出来ないような「複雑系」と呼ばれるシステムを構成している。つまりフロイトの唱えた無意識は決定論的な心の在り方を導くのに対して、脳科学的な現代の無意識(≒脳)は非決定論的な心の在り方を要請するのだ。

 私がこの連載の最後に述べようとしていることは、しかし「心はわからない」と言って読者を混乱させることを目的としているわけではない。現代の脳科学の時代に生きる療法家は、クライエントの言動を説明することにこれまで程エネルギーを使うべき根拠がないという事を伝えているに過ぎない。それよりも治療場面で、今、ここで起きていることの中で、特に相互の感情の動きを伴うような出来事について率直に語り合うことだ。いわゆる「エナクトメント」という概念は、臨床上起きた出来事について、それがクライエントの側に起きても治療者の側に起きても、結局は二人の合作によるものであるという理解に立ち、それの未来に向けての意味について考えを交わすことである。それがいい意味での相互ディープラーニング、双方の神経ネットワークが広く鳴り響き合う様な相互学習につながるのである。