2024年2月4日日曜日

トラウマと心身問題 1

新たな章として書き始める

 本章では心身問題というテーマでトラウマの立場から論じる。私は仕事柄、トラウマを負った方々や解離症状を持つ方々と臨床の場で出会うことが多い。そこで改めて気付くのは、彼らの非常に多くが身体の症状をお持ちだという事である。有名なヴァン・デア・コークの表現を借りるならば、トラウマは身体に刻印されるのである。(van der Kolk, 2016)

Bessel van der Kolk (2014) The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma Penguin Books.べッセル・ヴァン・デア・コーク (著), 柴田 裕之 (翻訳)(2016)身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

MUSという概念

 まずは「MUS」という概念の話から始めよう。これは「medically unexplained disorder 医学的に説明できない障害」の頭文字である。このMUSという疾患群は非常に悩ましい存在である。MUSはかねてから医学における大きなテーマであった。現在でもそれらは概ね「心因性の不可解な症状」とされる傾向にある。
 こう述べただけではMUSの意味するところがピンとこないかも知れないが、昔のヒステリーと考えていただきたい。すぐに「ハハー。あれか!」とピンとくる方が多いであろう。そしてこれとトラウマとの関係についても何となくお分かりかと思う。
 では改めてヒステリーとは何だろうか? それは古代エジプト時代から存在し、20世紀の後半までは概念として生きていた疾患であり、患者さんが自作自演で症状を生み出したもの、というニュアンスを有していた。つまりその症状はといえば本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方である。つまり差別や偏見に満ちた概念がこのヒステリーであったのだ。幸いDSM-Ⅲ(1980)以降は解離性障害という疾患概念に救い上げられ、差別という名の手垢がある程度は拭い去られる結果になったのである。

 しかしヒステリーというカテゴリーには解離性障害だけが含まれていたわけではない。様々な身体症状を持った多くの患者が含まれていた。そしてそれらの患者は医学的な診察や検査ではうまく説明がつかないという特徴を持っていた。もちろん医学は時代とともに進歩し、検査の記述も発展を遂げてきた。しかしまだ医学が未発達な時代にも、その症状の現れ方が一定でなかったり、その訴えが実際の医学所見より誇張されていると感じられるとこのレッテルが張られる傾向があった。癲癇のように当時それが脳波の異常による神経疾患であることが分からなかった場合も、その表れがドラマティックでコントロールが不能な場合は、このヒステリーに分類されていたのである。

 結果的にヒステリーにカテゴライズされていた患者たちは、解離性障害や癲癇やそのほかの身体疾患として分類されていった後も、かなりの部分が残った形になる。そして彼らが構成するのが、このMUSという事になる。そしてそのヒステリーに対して向けられていた偏見は、実はMUSにも当てはまるのである。

このようにMUSをヒステリーの現代バージョンとしてとらえると、それがどの様な扱いを受ける傾向にあるかも自ずとわかるだろう。つまり症状に関する患者さんの証言そのものをまともに扱って貰えないという可能性があるのだ。要するにその訴えは「気のせい」であって、その医学的根拠は多少なりともあるものの、概ねその訴えは大げさで注意を惹くために誇張されているものと考えられる傾向にある。
 しかし私はこのMUSの扱われ方について、それが私たちの持っている差別や偏見の産物だとは必ずしも言えないと思う。それは人間が基本的に「心気的な存在」であるために常に存在する宿命なのだ。つまり私たちは自分が病気ではないかと心配し、そうすればそれだけ症状が自覚されるような気がする、という性質を持っている。ICDという国際診断基準は、その第10版から “worried well” というカテゴリーを設けている。これは「病気の心配をする健常人」 あるいは「病気心配性」とでも訳すべきものだが、このような私たちの性質をうまくとらえている。
 例えばあの今日お昼食べたものにばい菌が入っていて、食中毒になったかも知れない、一緒に食事をした人は何か食中毒になってるとなると、何か気持ち悪い気がして吐き気がするような気がするということは普通におきる。そうするとそれを思っているうちにどんどんそういうような吐き気の症状が明らかになってくるということは多かれ少なかれ生じるのだ。痛みもその様な性質を持つ。人間はある症状が自分に起きているのではないかと思ってそれを心配するといつの間にかその症状が現実にあるかに思われて来るような存在であり、それを少し大げさに、「人間は心気的な存在である」という言い方をここでしているのだ。
 さてもう一つ、MUSに属するものの一部は、「異なる科で別物として扱われる」傾向にあるということが言える。MUSに分類される疾患は将来医学的な所見が見出される可能性もあり、身体疾患と精神疾患の両者を併せ持つものとして扱われるべきであると報告者は考える。すなわち精神科のみに属するものではなく、そのためには「心因性」という概念の見直しが必要であるということだ。

 ともかくもMUSの概念は多分に曖昧さを含み、それをいかに整備するかは、現代的なテーマでもあるということが言えよう。

 ところでこのMUSという概念が万全なもので問題を含まないとは私は思ってはいない。ある状態がMUSに属するべきかが場合によっては政治的な議論に直結するものもある。その一つの例として、子宮頸がんワクチンの後遺症の問題をあげたい。



 以前国が接種を呼びかけた子宮頸癌ワクチンの後遺症が大きな問題となったことは記憶に新しい。厚生労働省は2009年にこのワクチンを承認し、翌年に公費助成を開始し、2013年4月には小学6年~高校1年の女子を定期接種対象とし、個別に案内を送って接種を促した。だが全身の痛みやしびれなどの健康被害の訴えが相次ぎ、同年6月に推奨を中止した。しかしその後2022年4月、勧奨を再開したのである。
 被害者による訴訟は2016年7月に東京、名古屋、大阪、福岡の各地裁に一斉提訴され、福岡など6県に住む22~29歳の女性26人が国と製薬企業2社に1人当たり1500万円の損害賠償を求めている。製薬会社側は「安全性は医学的、科学的に確立している」と請求棄却を求めている状態である。
 ここで私が示したいのは、この子宮頸癌ワクチン接種後の健康被害と言われるものがMUSとして分類することの是非ではない。一見したところ、製薬会社はその症状自体が本来存在しないものとし、原告側はそれをワクチンによる現実の障害とする立場という構図と見なすことができる。しかしこれをMUSと分類することそのものに関する立場の違いと見なすことも出来る。製薬会社はそもそも症状自体が存在しない(気のせい?)としたいであろうし、原告側の立場からはMUSというよりはれっきとしたワクチンに由来する疾患と見なすという立場であろう。双方がこれをMUSにいれることに別々の立場から反対しているといえなくもないのだ。これはMUSという概念自体も実は議論を招く、政治的な色彩を負いかねない概念であるという事を意味するかもしれない。