2022年12月6日火曜日

脳を裁くことはできるのか? 1

 神経ネットワークとしての脳の姿を知った私たちがとりあえず行きついている状態は、心とは脳の機能ということである。ネットワーク間を流れる電気的な信号の流れが心、というわけである。しかしこれは実はとても危うい考えだ。信号により行き来するのは何か? それを仮に「情報」と呼ぶのであれば、それの行き来が心のあり方ということになる。そしてそれはジュリオ・トノーニが唱える「情報統合理論」のエッセンスということになる。そこでは要するに情報のやり取りが心を作り上げているというものだ。
 なんだかわけのわからないことを書いているように取られるかもしれないが、実はその通りだ。書いている私もなにがなんだかわからない。ただこのように心と脳の関係を考えていくと、私たちが確かなものと信じているものはことごとくヴァーチャルなものであるという結論に行きつく。私、という意識でさえそうなのだ。心とはヴァーチャルだ、という理論を展開する前野隆司先生に私は基本的に同意するのだ。しかしそれは私たちの日常生活で前提としていることを曖昧にしていく。
 福島章先生(上智大学名誉教授)はもともと精神分析に造詣が深く、殺人者を含む犯罪者の心理に関して分析的な考察を発表していた方だが、ある時から考えを一変させてしまったという。それが「殺人という病」(金剛出版、2003年)に表されているが、当時用いられるようになったCTMRIなどの脳画像技術からわかったことは、「殺人者の半数以上に脳の形態異常があるのに比べて、殺人以外の犯罪者のそれは14%にすぎない」という研究結果であったという。(この問題は以前に書いたことがある。自著「脳から見える心」(p33)から引用する。)

 その時代からさらに脳科学的な知見は進み、最近ではサイコパス的な脳の特徴がいろいろ知られるようになってきている。(ジェームス・ファロンの「サイコパス・インサイド」などはすでに紹介したことがあるが、秀逸である)。するとどうしても次のような考えに行きつく。殺人者は本当に責められるべきではないのではないか? そのような脳を持って生まれてしまったという意味では、彼らはむしろ犠牲者ではないのか?