臨床における本との付き合い方
まず人生において「出会い」(つまり程よい、場合によっては強烈な刺激)が必要であるとするならば、人との直接の出会い(友人として、あるいは指導教官、教師としての)と本での著者との出会いは、皆同等と考えることが出来ます。映画だってインパクトがあるし、最近では動画を通しての出会いということもあるでしょう。その人にとって体験が一番刺さりやすい方法を選べばいいし、それが読書でなくてもいいわけです。(最も効率よく学びたいのなら、その専門家に直接話を聞きに行った方がいい、読むよりは直接話を聞きに行った方がいいという主義の人もいる。私のお友達の和田秀樹さんなどはそうであった。)
実は私は人によってどのメディアが情報として入りやすいかがずいぶん違うと思うし、活字がどんどん入ってくる人の場合は、もう暇さえあれば読書ということになり、自然と本から影響を受ける人が多いであろう。活字による影響ということであれば、日本語でどん欲に読書をする人でも、外国に出て英語での情報の吸収力が格段に落ちる人の例などを考えればお分かりだろう。私の恩師であった小此木啓吾先生等はそうでした。彼は本をむさぼり読んで、しかもその内容を忘れないという特技の持ち主でした。たくさん読んだ人がそれだけ知識が豊富になるということはおおむね言えるでしょう。ただしそのような人が本を書くとは限らないし、それ以外のアウトプットをするとは限らない。そして私にとってはそちらの方が大事なのです。
私にとっての読書ははっきり二つに分かれます。一つは単に面白いもので、寝る前に出来るだけ気持ちよく眠れるもので、たいていは宇宙や人体や心理学などの日本語、ないしは英語である。サイエンス系のノンフィクションは、純粋に興味深いので読んでいるもの。
もう一つは論文を書くために読むものです。私は実は不勉強家で、知識と教養を身に着けるための読書というのが全く苦手というよりやれないのだ。その典型は受験勉強なわけで、だから受験時代は大変つらかった。
ただ書くこと、そのために考えることは好きで、自分の理論を支えてくれるような論文を探すために読むという感じである。また大学で講義をする立場にもあり、また総説のような論文を依頼されることがあり、そのために仕方なく読むということがあります。ところが無理して読んでいるものは、実は発想としてものすごく重要な部分を占めてくれています。
私はあるテーマ、例えば私の場合は精神分析や恥と自己愛、解離性障害、トラウマといったテーマですが、それらについてのベーシックな教養を持つことは、そこから発想を得るためにとても重要だと考えています。私は基本的には独創的な論文は、結局は巨人の肩の上に乗ったような形でしか成立しないと思います。つまり過去の誰かの研究の上に立って行うものです。そうでないと単なるエッセイになってしまい、学術論文として受理されて掲載されることにはならないのです。だから結局は読書をして知識を蓄えなくてはならない。そしてそれをやりたくない自分は研究者として限界だと思っています。
以上の理由から、私は読書嫌いと言いつつも、私に論文を依頼してくれた専門誌の編集部の皆さんには大変感謝しているのです。その様な形で読書をせざるを得ない状況に追い込んでくれるからです。そしてそれは書評についても言えます。私は時には「この本はとても自分のためになるとわかっても自分が読書嫌いで読めないな」という場合は、その書評を買って出るというやり方も選びます。
ということで私の討論はあまり討論になっておらず、私の体験を語ることになりましたが、少しでもご参考になれば何よりです。