2021年2月5日金曜日

続・死生論 27

  このように考えると喪とは同一化の対象を失い内在化に向かうプロセスと言える。もちろん対象がそこにいるうちから内在化が進むかもしれない。これはその対象が失われる前から起きることもありうる。私たちが親との関係で体験するのもそれかもしれない。子供が成長してやがて家を出るとき、子供は年老いていく親を既に心の中に持って(内在化して)いる。その程度に応じて実際の親は重要ではなくなってくる。旅立ちはあまりつらくないのだ。

さて人間を含めた対象は常にそこにはいない。「儚さ」が故である。何もかもが移ろっていく以上は、それに過剰に動揺せずに心を安定した状態に保つことが心の成熟を表すと言えるだろう。それは対象を内在化する力により表される。そして自分自身の心身が儚いとしたら自らについても死すべき運命を受け入れておくことが重要になってくる。そのような世界観とは、ハイデッガーが「本来性eigentrich」と呼んだ状態である。

さてこのことがどうして強調されるかというと、これが芸術や美に絡んでくるからだ。絵を見て美しいと感じる。絵と同一化をする体験と言っていい。西田の純粋体験もそうである。でもそれは同時にその絵の取入れのプロセスを必ず含む。なぜなら芸実は心を打ち、そのイメージを中に取り入れるように促し、そしてまだ取入れが足りない分だけその絵を見に通うからだ。子供が親を取り入れるために十分に抱っこされなくてはならないのと同じである。ここに喪と似たようなプロセスがありそうだ。ただし喪は対象の喪失を取入れにより癒されるのに比べて、芸術は取入れによりその絵を見ていない瞬間も楽しむことができるようになるのだ。音楽の旋律を考えればもっといい。いい曲はいつまでも心に鳴り続けるのだ。あるいはこのように考えてもいい。対象や美術品の同一化は基本的には快のプロセスであり、しかしそれらが儚いゆえに内在化によりその同一化の快を疑似体験するのである。ただしそれは対象が外在するときの同一化と同じものでは決してない。それがこの世に生まれた私たちの担う運命だというわけである。内在化による体験は同一化とは違う。喪が完璧に修了することは最初から無理だったのである。このように考えると内在化はフロイトが言った夢による幻覚的な満足に似ていると言えるかもしれない。

さて、以上のことをだらだらと考えていたが、改めてフロイトの論文を読むと、彼は同一化を私とはかなり違う形で使っていることを知った。彼にとっては同一化=内在化という意味なのだ。それを理解したうえで、論文に以下のような同一化の章を加えることにする。