2019年12月2日月曜日

死生学 推敲 4


桜の話をしていて突然人間の感覚の話に移ってしまったが、もう私の意図は伝わっているだろう。桜はずっとそこにあり続ければ、それが見えなくなってしまう運命にある。桜を愛でようにも、その桜が見えなくなってしまってはどうしようもないではないか。私たちは何かを感じる時、この様な感覚器の揺らぎを利用してその意味をより充実した形で味わうことが出来る。そして目の前で咲いている桜についても同様の仕組みが働くことで、初めてその存在を味わうことが出来る。「明日はもう散ってしまうかもしれない」という感覚は、心の中でそれを散らしてみることで初めて生まれるだろう。そうすることで現に目の前に存在しているものが新たな新鮮さを持って感じ取られるのである。
ここででフロイトがこのエッセイの題に選んでいる transiency 無常という言葉についてもう少し論じたい。これこそが揺らぎにとって本質的なテーマなのだ。日本の精神分析の世界でこのテーマに切り込んでいるのが北山修先生だが、彼は transiency に「儚(はかな)さ」という訳語を与えている。そして彼が論じる「いい加減さ」(第○○章参照)がここに絡む。いい加減さと儚さは実は深く関連しているからだ。儚さは、「ある」と「ない」という両極の間にあって揺れているという意味で、かなり「いい加減」なのだ。このことの例に桜を取り上げよう。儚さを論じるのに、桜をおいてほかはないだろう。
儚さと言えば、思えば桜もいい加減な花だ。その年によって咲く時期がいい加減だし、あと数日持つかと思っていたら、急に風が吹いたり雨が降ったりすると散ってしまうし、有給休暇を取って立てたせっかくの花見の計画がおじゃんになる。それにそもそも見頃の期間が短い。ちゃんと咲いて愛でてもらうという意思がいったいあるのか!と言いたい。色も赤でもなく白でもない、中途半端だ。でもそこが日本人にはグッとくるのだろう。
サクラは儚さ、無常の典型である。そして人間の命、存在もそうである。思えば私たちはどうして生まれてきて、何を目的に生きているのか、誰も知らない。いつ死ぬのかも知らされず、結構突然、たとえば大動脈に裂け目が一気に走って、あっと言う間に絶命してしまう場合もある(解離性動脈瘤の話だ)。その意味では先のことは何もはっきりしていないのだ。それをそれとして受け止め、「ああ、だから味がある」「これがわび、さび」などというのが日本人なのだ。アメリカ人の感覚なら、「だから造花でいいじゃないか。手っ取り早いし。」となるかもしれない。でもそれは生花と造花の区別がつかない程度の感覚だから言えることなのだ(ひどく差別的なことを言っている)。
さて桜の花。日本人は関東なら3月の下旬あたりからソワソワしてくる。桜の枝をジロジロ見て、どのくらい蕾が膨らんだ、などと全国ネットのニュースで流すのだ。「靖国神社の目印となる桜の木の蕾がまだ三つしか開花していません。惜しい!」などと言っている。ジロジロ見られる桜の蕾の身もなって欲しい。この咲いていない、咲いた、の中間が一番人々の心をつかむのだ。しかもたとえば七分咲きならそのままでいてくれればいいのに、どんどん進む。桜の命は無情にも「無常」なのだ。