2019年9月6日金曜日

解離性健忘について


1.解離性健忘について

解離性障害とは、患者が突然普段とは異なる人格状態になり、また突然元の状態に戻るという特異な現象を呈する精神疾患である。患者をA氏とすれば、彼は突然通常のA氏としての在り方とは明確に異なる状態を呈するようになる。すなわちAの持つ人柄や知識や記憶や判断力とは明らかに別な状態、いわば人格Bの状態にスイッチする。その切り替わり(スイッチング)は通常は極めて素早く、しばしばある種の知覚的な刺激が引き金になる場合が多いが、時には一見明確な引き金がなくても生じる場合がある。また人格状態のスイッチングは徐々に生じることもあり、いったんAが意識を失い、Bとして目覚める(あるいはその逆)という形をとることもある。治療者により催眠等によりスイッチングを誘導する際は、1,2分をかけてこれが生じ、その際しばしば患者は頭痛や眩暈を体験することがある。
このような現象を解離性障害と呼ぶが、時には意識状態のスイッチングの代わりに、ある種の身体症状(手足の麻痺、失声(声を失うこと)、失明、など)が急に出現したり、また収まったりという形で生じる場合があり、それは一般に「転換症状」ないし「転換性障害」とよばれる。いずれもどの程度の頻度で発生しているかはわかりにくく、それはしばしば周囲には気づかれなかったり、は当人たちがそれをことさら隠すことで確認されないことが多いからである。
解離性障害が典型的な形で現れるのが「解離性同一性障害」であり、これは従来「多重人格(障害)」と呼ばれていたものである。その障害では主として幼児期の虐待などのトラウマ体験が原因となり、人格B、人格C、人格D、・・・といった多くの人格が形成され、それぞれが異なる年齢や性別や記憶や性格を持った、あたかも異なる人物のように交互に入れ替わり、ふるまうという形をとる。しばしば人格Bが出ている時には人格Aは「眠っている」ために、Bがその間に持った体験については何も知らない。つまりABでの体験を健忘している(忘れている)ということになるが、実際には本当に忘れるという体験とは異なる。なぜなら人格Bの状態に戻った際には、彼は自分の持った体験を思い出すことが出来る(というよりは最初から「忘れて」いない)からである。また人格ABが出ている時にも眠る代わりに「後ろから見ている」状態になることがあり、その場合はABがとった行動を、あたかも人事のように、幾分ぼんやりとではあるが記憶していることがある。ちなみにここで「眠っている」という表現の仕方をしているが、実際には意識が消失している状態であり、通常の意味で入眠している状態、すなわち刺激を与えれば起きる、と言った状態とは異なることは留意していただきたい。
このように解離性同一性障害(以下、DID では、あたかも脳にいくつかの人格が共存するという不思議な現象が生じている。これらの現象が通常の私たちの体験とはあまりにかけ離れているため、DIDは実際には存在しない、あるいは患者はしばしば別の人格の演技をしているだけだ、と主張する精神科医さえいまだに存在するのが日本の現状である。(ただしもちろんDIDは米国やWHO (世界保健機関)の精神科診断基準にも掲載されたれっきとした精神疾患である。)
さていわゆるDIDではなく「解離性健忘」という状態では、どのようなことがおきているのだろうか。解離性健忘の場合も、一つの人格状態Aからもう一つのBへとスイッチングするということは生じるものの、人格BDIDの場合ほどに明確な人格として成熟した形で姿を見せるわけではない。人格Bはその状態で出会っても言葉を話さなかったり性別や年齢が明確でなかったりする場合も少なくない。いわば原始人のような状態ということが出来る。
解離性健忘には一回だけ生じてそれ以降は再発がない場合と、何度も再発する場合がある。前者の場合はいわゆる「解離性遁走」という形をとることが多く、患者はある日突然人格Bの状態になり、ふらっと家や職場を出て、数時間から数日、時には数か月にわたって放浪し、旅先でふと我に返る。そして今度はそれまでの放浪していた数時間~数か月のことを思い出せない。つまりいったい自分がどうして見知らぬところにいるのかが分からず、本人も当惑し、途方に暮れて周囲の人に助けを求めるという形をとることが多い。著名人がこのような形で失踪した後に発見された場合はニュースに取り上げられることもある。また場合によっては本人がそれ以前の人生について思い出せずにそこであらたに生活を始めてしまうこともある。幸いなことにこの種の解離性健忘(解離性遁走)は再発することは少ないが、失われた記憶は永遠に戻らないことも少なくない。
再発するタイプの解離性健忘では、とつぜんBの状態になって短い失踪を繰り返すこともあるが、特に失踪はしないものの突然普段とは全く異なる行動を示し、ふと我に返るということを繰り返す場合が多いようである。その際には実は本件のように万引きが繰り返されるケースも少なくない。解離性健忘という病名が示す通り、通常はその問題となった行動の最中のことは後になっても全く思い出せないが、ぼんやりと思い出せる場合もある。そしてこれが本当の意味での健忘とは異なる点はすでに述べたとおりである。
再発するタイプの解離性健忘は、放浪や万引きなどの行為以外にもさまざまな形をとる。仕事中に手を休めてしばらくボーっとした状態で、その時にあったことを記憶していない、学校で授業を聞いていた時に解離が生じ、その授業の内容を覚えていない、というようなパターンの方がむしろ多いものと考えられる。それらのエピソードは大抵は周囲にも気づかれずに終わってしまう。ただしいちばん周囲に影響を及ぼし、また周囲の目にも明らかのは遁走や万引きなどということでそのような形での解離が目立つということになるだろう。

2.解離している際の人格状態

解離性健忘の場合、解離中の人格状態Bは、明確で成熟した人格の形をとることが少ない。通常のAのような判断力は持ち合わせず、衝動的で短絡的な、あるいはパターン化された行動を無反省にとることが多い。(明確で成熟した人格が一定のエピソードを繰り返す場合は、むしろDIDにおいてある人格が確信犯的に、何らかの目的でそれを繰り返しているケースと見なすことができる。ただしBの状態でA当人にしかわからない情報を用いてATMから暗証番号を入れてお金を引き出す、という複雑な行動を示したり、その行動の証拠となるようなものを破棄したり、携帯の履歴を消し去るというような複雑な行動を示すことがある。しかしそれでも長期的な計画やそのための準備をするといった様子は見られない。失踪中のBの行動には予測が付きにくいことが多いが、時には以前精神的なトラウマを受けた場所に向かったりする場合もある。
万引きを繰り返す際の人格Bについて言えば、たいていは判断力は十分ではなく、短絡的である。盗んだ商品を隠す様子もなく(つまり盗んでいる、という自覚もなく)そのままレジの横をスタスタ歩いて出ていく、あるいはその商品自体が高価なものではなく、それを万引きしなくてはならないような経済的な事情が見当たらないという場合も多い。このようにBの状態では万引きをすることで失われる社会的な信用などを顧慮する様子も見られず、そもそもAへの気遣いや、自分たちが運命共同体であるという自覚に乏しい。その意味ではまるでロボットの様にふるまっているような印象も受ける。これはいわゆる心神耗弱や心神喪失状態に相当するといえるだろう。
 ちなみにこの人格Bの状態は、専門用語では「解離性トランス」とよばれる状態と理解される。解離性トランスとは、「直接接している環境に対する認識の急性の狭窄化または完全な欠損によつて特徴づけられ、環境刺激への著明な無反応性または無感覚として現れる 無反応性には,軽微な常同的行動(:指運動)を伴うことがあるが、一過性の麻痺または意識消失と同様に、これにその人は気づかず、および/または制御することもできない。」と米国精神医学会の発行しているDSM-5という診断基準に定義されている。