いまだに使われる「ヒステリー」という僭称
ところで最近でも「ヒステリー」という言葉は今でも使われるのだ。例えば次のような使われ方がある。
最近仕事に行けないという若い新入社員の男性。上司の指導の理不尽さを訴え、職場のブラック気質について話し、仕事をしばらく休むためにうつ病の診断書を書いてほしいという。しかし診察した様子からはその男性からは抑うつ的な印象は受けず、むしろ自分の思いを通そうとしているように思える。精神分析的なオリエンテーションを持つ医師はこうつぶやく。「うつ、というよりはヒステリーだな…。」
このような時に用いられるヒステリーは解離性障害についての記載ではなく、むしろ患者自身が持っているある種のスタンス、態度、ということになる。それは疾病により何らかの利得を得るという意図、すなわち「疾病利得」の存在ということになる。ここでトラウマ神経症が生まれるまでの経緯を、すなわち100年前のことを思い出そう。昨日も振り返った内容だ。トラウマは症状の発生には触媒的な意味を与えるだけであり、そこには「願望複合体wish complex」 が出来上がるのだとした。そのことがこの疾病を呈する患者の爆発的な増大ないしは流行を引き起こすことが懸念された。現在の見地からは戦闘体験や自然災害その他のトラウマにより人が精神を病むということ、そしてそれはその他の身体、精神疾患と同様にケアや賠償が必要であることには疑う余地がない。というよりそれを認めたうえで社会が成り立っている。とすればあの懸念はいったい何だったのだろう?
少し話を広げるならば、生活保護の制度についても同じことが言えるかもしれない。働けない人の経済的な援助を公的な機関が行うという概念は、それが成立するためには社会の成熟が必要となる。「ただ働きたくないだけの人がそれを悪用するのではないか?」という声を凌駕するだけの良識ある人々の声が反映される必要があるからである。
もちろんここで「疾病利得」が存在したり詐病が混じってしまったりするという可能性は決して除外できない。戦闘体験を持った兵士の中には、実際には体験しない悪夢やフラッシュバックを訴え、無料で「治療」を受けたり休職が許可される人もいるかもしれない。あるいは実際には働けるにもかかわらず、精神を病んでいて働けないと称して保護費を請求する人もいるかもしれない。でもそれはその種の福祉制度を設けないという根拠にはならない。そしてそこにはその種の詐病や不正請求は私たちが想像するよりはるかに小さな割合でしか生じない。それにもかかわらず病者が「疾病利得」を得ることに対して過剰に警戒するとしたら、いったいそこに働く力動とは何だろうか?